同性愛を病理化し孤独や死へ追い込む差別、エイズ危機とACT UP(セクシャルマイノリティやセックスワークへの差別)、DV、喪失と薬物依存、オピオイド依存症とサックラー家。
子どもの頃から現在に至るまで、ナン・ゴールディンが人生を歩みながら闘ってきたものが、記録映像や資料と共にまとめられている。
ナン・ゴールディンの人生を辿りながら、かっこいい、素敵だ、こうあれたらと思う姿が何度かあった。
とりわけ現在のナン・ゴールディンの闘う姿を見てそう思った。
あとパンフレットに渋川清彦の寄稿文を読んで。
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国立西洋美術館で飯山由貴さんや百瀬文さんらの作家による川崎重工への抗議が行われた日に映画を観に行ったら予告編が流れて、予告編の中に含まれるいろいろな美術館で行われたサックラー社への抗議としてのダイ・インの様子とそれが重なって観ないとなぁとぼんやりと確かに思ったのが、この映画を観るきっかけだった。
※あと性的依存のバラードのスライドショーがかっこよかったから見たいと思った。
実際に映画を観てみてACT UPの時の資料映像の中で当時語られた言葉が、パレスチナで行われる民族浄化(ジェノサイド)とそれに対する抗議、沈黙を強いるための暴力と抵抗を想起させた。(今思えばパレスチナ運動に限らず、セクシャルマイノリティへの差別など様々な植民地主義的な構造を土台にする差別の問題と繋がる)
「Silence=Death」
時に、それはいろいろなものを奪われすぎて沈黙している人の自責を煽るものとして作用してしまう危うさもあると思っているから使い方を間違えてはいけないとも思うけど。
以前、ACT UPのドキュメンタリーを観た時、私は自分事として連帯することの難しさに悩んでいたからその時代の連帯する人々の力に見習えないよ…と弱気になっていた。
んだけど身体を痛める経験を経ても、年齢や階層を超えて共に痛みを抱えて生きる人々と手を取り合い、耳を傾け、語り、繰り返し闘い続けるナン・ゴールディンの姿を見て、自分なりに闘いを続けようと思ったりした。
性的依存のバラードは写真自体は好きと思うけれど、他者である個々人のセックスを公にするプロセスの粗さはだみ。
サックラー一家のZOOM会議での一人ひとりのなんとも思っていないような、とりあえず謝ればいいみたいな顔を思い出すとやはり腹が立つな。