このレビューはネタバレを含みます
マレンの服がいいな、というのが第一に動かされる感情で、その青っぽい服が白い寝巻きのような服装に変わり、やがて赤い血に染められる場面で、ぼくは血を見るとたいがい気持ち悪くなってしまうのに、それに反してこれは好きな映画だと純粋な感情を抱いた。まったく気持ち悪くなかった。横にいる人に心が吸われ、だんだん息が荒くなり、浮遊感とともに指を口にパクリ。心も体も制御できず、そのものを体の内に取り込むことを果てしなく求めてしまう。それは性欲に似た淫らな欲情か、食欲に似た生存本能なのか。どちらにしても、それができないならば彼女は生きてはいけなかったのだろう。父に見放され天涯孤独のごとく放浪することになったマレンは、同じにおいを持つリーに出会う。ここでのにおいはただ同族ということだけでなく、同じ疎外感、同じ絶望、同じ贖罪、同じ欲望を抱えるものを結ぶシグナルとなる。彼女たちが体をすり寄せ、手と手をつなぎ、口と口を重ね合わせるとき、常に緊張感が漂ってしまうのが美しいと思った。どちらかが何らかの欲に負けて相手を食ってしまうのではないか、という怖さがある。距離を近づけたい欲求と、相手のことを傷つけてしまう恐怖。それは食う食わないに関わらずにそこかしこにある。一方で、ふたりの間に流れる空気には、そうした緊張感や恐怖感を遠ざける優しさのようなものも漂っていたように思う。ぜんぜんお互いを食いそうになかったといえばそうとも感じながら見ていた。冒頭のマレンの食人シーンは好きな人への愛の行為と食べることが結びついていたように見えたけど、マレンとリーの間にはそのジレンマのようなものはあまりないようだ。現実世界における社会的なマイノリティ属性のことを考えずに彼女たちのことは見られない、それでいて観ている自分はマジョリティのスペースに居続ける。彼女たちの息遣いに五感すべてが揺れ動き、しかしまだ手は届かない。この距離をずっと意識していたい。時が経ちサリーの一件後、肺に穴が開いて瀕死状態のリーに対し、マレンは噴き出る血を吸いながら肺に息を吹き込むように口を押し付ける。骨ごとすべて食って同じ血肉になることを拒み、彼女たちは一人と一人のままでこの世に居続ける。真っ白で空っぽの部屋、去っていく人の背中、走りつづける車、どこまでも伸びる大地、血みどろの身体、そんな映像の記憶とともに、世界の中にポッと存在するふたりの姿形がくっきりと脳裏に焼きつく。
午前中に映画を観て、それはそれは凄まじい映画体験で、新宿のディスクユニオンに寄ったらリージョンフリーの輸入Blu-ray(日本語字幕あり、初めて知ったけどこれはどういう仕組みで正規販売されてるんだろう)が売られていたので即購入して家に帰ってもう一回見た。こんなことしたの初めて。なんなのかはよくわかってないけど、好きなものが詰まってると思いながらずっと観てた。今のところはカット割のリズムとふたりの所作が肌に合ったのだとしか言いようがない。TITANEといい自分はこういう人智を超えたものの表象が好きすぎる。あくまでも物語は“普通らしさ”から出発しているのもいい。それでも急に彼女たちは逸脱して、気づいたらびっくりするところまで連れていかれている。学校の廊下から、広大な大地までの飛距離。映画が示してくれる、可能性と際限のなさ、定義づけすることの難しさを信じているのだと思う。