耶馬英彦

福田村事件の耶馬英彦のレビュー・感想・評価

福田村事件(2023年製作の映画)
4.5
 テアトル新宿でこんなに長い行列ははじめて見た。伊勢丹の方の登り坂にまで列が続いている。これは入るのに時間がかかりそうだと覚悟していたら、館側の緊急措置でメール画面だけで入場できた。賢明な判断だ。
 それにしても、こんなシリアスで重いテーマの映画にこれほどの観客が集まったのは不思議としか言いようがない。よほどプロモーションが上手くいったのか、それとも今年が関東大震災からちょうど100年で関心を集めたのか、寡聞にして理由は不明だ。それでも、問題意識を持った人が沢山いるのは間違いがないところで、喜ばしいことではある。

 不自由な精神性が支配する時代に、論理的で理性的な思考をする主人公澤田智一の、不安と恐怖と罪悪感が本作品に通底するテーマである。時代に倦んで人生を諦め、傍観者として人生を送ることを決めたものの、忸怩たる思いは捨てきれない。淡々とした見かけの心の中では、嵐が吹き荒れている。
 井浦新は見事だった。軍国主義者でもなく社会主義者でもなく、ましてや差別主義者でもない。しかし時代のパラダイムは差別主義であり、軍国主義だ。時代に背を向けて人生をうっちゃるには、残された時間はあまりにも長く、辛い。

 田中麗奈が演じた妻静子が果たす役割は、とてもわかりやすい。恵まれたお嬢様育ちで、他人の悪意と無関係に生きてきた。差別や差別感情とは縁のない人生だ。人並みに美味しいものを食べたいし、性的な満足も得たい。他人への優しさがあるし、夫に対する愛情もある。
 人生の傍観者、時代の傍観者になってしまった夫を否定し、もう一度人生を生きるように促す。生きている以上、完全な傍観者ではいられない。夫にそのことを分からせなければならない。夫に対する問いかけは、すなわち、現代の我々に対する問いかけでもある。また見ているだけなの?
 あっけらかんとした演技に見えて、実は細部にまで気を使ったとても繊細な演技だった。こちらも名演だ。

 不倫、セックスレス、部落問題、権力の横暴、報道機関の堕落などが、関東大震災の前後に典型的に描かれる。人間は多面的だから、すべての問題は人間性に集約される。とっ散らかった印象はない。むしろ多くのファクターを取り入れながら、上手にまとめてみせてくれたと思う。森達也監督、渾身の名作である。
耶馬英彦

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