【恐ろしい決定を下すのは平凡な会議】
私の住む都市の劇場には来なかったので、DVDを借りて鑑賞。
1942年1月にベルリンのヴァンゼー(ヴァン湖)で行われた「ユダヤ人問題の最終解決」のための会議を、残された議事録により再現した映画。「最終解決」とは、ユダヤ人をこの世から抹消するということ。
ヒトラーやゲーリング、ヒムラーといったナチ幹部はこの会議には出ていません。
議長はラインハルト・ハイドリヒ親衛隊大将で、これが一番の大物。
知名度ではアイヒマン中佐がそれに並びますが、彼は戦後になって南米にひそんでいたのを逮捕されてイスラエルで裁判にかけられたために有名になったので、中佐という階級からしても中間管理職と分かります。
そしてハンナ・アーレントはアイヒマンの裁判を傍聴して、「悪の凡庸さ」という有名な表現を残しましたが、この映画を見ると、その表現が痛切に実感できるのです。
ヨーロッパに住む1100万人のユダヤ人を皆殺しにしようという計画を決定する会議なのですが、議題を別にすれば、会社やなにかの会議と根本的な相違はありません。
一つにはナチ親衛隊側と、ドイツの官僚らとの対立がある。
特に内務省次官シュトゥッカートはハイドリヒの意向に反対している。といっても、ユダヤ人を抹消すること自体に反対なのではなく、断種すれば自然にユダヤ人は消え去るのだから、わざわざ殺す必要はないという主張をします。またユダヤ人の定義(例えば両親の片方だけがユダヤ人である、1/2ユダヤ人をユダヤ人に入れるかどうか)をめぐっても親衛隊側と対立する。
もっとも、根本的な路線はすでにヒトラー政権誕生によって動かせないものとなっていたから、その路線内でのささやかな違いで勝負するしかなかった、というふうにも受け取れます。ウィキによると、シュトゥッカート自身も親衛隊の高官だったそうですから(この映画では純粋な官僚のように描かれていますが)、大筋ではナチの仲間だったということでしょう。
他もいくつかの視点から親衛隊の構想に異議が唱えられますが、基本的にはハイドリヒの目指す方向性でことが決まります。大きな流れがすでに出来てしまっていると、その流れ自体に逆らうことはできなくなる――これは、この会議に限らず、会議というものが持つ普遍的な性格なのでしょう。
もっとも親衛隊内部でも、担当地域ごとの利害関係があり、一枚岩というわけではありません。
私がいちばん驚いたのは、会議を主催するハイドリヒです。ハイドリヒはナチ・ドイツに支配されたチェコを統治する役割も受け持っていて、チェコ人に対しては厳しく振る舞ったために、最後にはチェコ側に暗殺されてしまうのですが、この会議でのハイドリヒは残酷な親衛隊員というよりも、物事をうまく切り回し、周囲にもソフトに対応する有能なビジネスマンという印象です。
つまり、単に粗暴で残酷なだけの人間では、たとえナチであっても出世はできないということでしょう。残酷さや差別的感覚とともに、仲間たちとうまくやっていく人間としての能力も必要なのです。
この映画はそういう意味で、参加者たちの色々な表情を通して、ナチ映画にとどまらない興味深い作品になっていると言えましょう。