光好尊

正欲の光好尊のネタバレレビュー・内容・結末

正欲(2023年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

本作を理解するにあたってまずフーコーを思い出したい。フーコーは、系譜学的分析にあたって、近代以前、近代への過渡期、近代以降(18世紀以降)の三つに分けた。私たちは、近代以降の枠組みに沿って生きている。

「普通」というのは、社会が構築する一つの枠組みである。「普通」は社会によって規定されていると考えるのはいいが、社会は個々人の集合が構築するものでもあるため(方法論的集合主義)、個人もまたそれに沿って構築しているという再帰的(客体が主体に、主体が客体にもなりうるような)側面ももつ。これを構築主義と言う。

フーコーによれば、近代以前の刑罰は精神ではなく身体に対する刑罰だった。つまり、近代以前では「精神」が問題にはならない(狂人に対しては神・魔女などが原因になる)。しかし、近代以降、様々な錯乱には「精神を治療する」という考え方ができてきた。よって、禁固刑による「精神の治療時間」を設ける。反対に、一般には規律訓練(ディシプリン)を施すことで、「普通」(精神の「異常」の反対)をつくりあげることが推進された。ことほど左様に、社会に新たな「(法)秩序」という枠組み、そして新たな「普通」ができあがる(本作では検事である稲垣が登場する)。

したがって、「正しい欲が存在しない」のではなく、その時代や社会、つまりある枠組みに沿った「正しい欲が存在する」に過ぎない。ところがどっこい、「普通」とは構築主義的に言えば「支配的なprominent普通」に他ならない。「普通」を相対化しようとして「多様性」を持ち込んでも、「支配的な普通」をしか考えられない人々にとっては、また新たな「支配的な多様性」という「支配的な普通」を考えるに過ぎないのである。ゆえに、「性欲」も「支配的な欲望」の一つに過ぎない。

重要なことは、「普通など存在しない」と考えるのではなく、自分が、あるいは自分たちがどういうことについて「普通」と言っているのか、どういうことについて「正しい」と言っているかを考えることだ。

つまるところ、「考え方は人それぞれ」なのではなく、「人それぞれ考えた結果の、支配的な普通という厄介者」をどうするか。

そういう意味で、朝井リョウの考える水フェチや小児性愛者も「支配的な普通において対比した異常」に他ならないのかもしれない。
光好尊

光好尊