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フェイブルマンズのKuutaのレビュー・感想・評価

フェイブルマンズ(2022年製作の映画)
4.3
怪作にして快作!クソ長い感想です。

▽トニー・クシュナーが描くもの
クシュナー脚本は二項対立の「衝突」をモチーフとした「物体の離散と集合」を描く。

ミュンヘンではイスラエルとパレスチナの報復合戦を、リンカーンでは修正13条を成立させるための議会工作を、ウエストサイドストーリーではプエルトリコとポーランド移民の抗争を描いた。

理解し合えない他者と、地道な折衝を重ねて繋がろうとする。ミュンヘンではその惨めな失敗を、ポスト9.11のアメリカ社会にぶつけた。リンカーンではその理想をダニエル・デイ=ルイスの熱演に込めた。ウエストサイドストーリーは一番わかりやすく、異なる概念が衝突、離散、時に重なって回転する美しさをミュージカルとして表現した。

今作も同様だ。父と母の対比的なキャラクターは言うまでもないが、今作は徹底的に「2人に挟まれるサミー」というシチュエーションを作る。父とベニー、いじめっ子2人、おもちゃの汽車への意見が違う祖母2人、サミーと話したい動機が異なる図書館の女子2人…。

サミーは常に二つの概念の間にいる。その葛藤を、熱演でもダンスでもなく「映画」として表現する。サミーは映画そのものだ。オープニングのカメラ=サミーの視点は両親の意見を聞くために左右にパンするが、映画を編集するとき、食い違う意見は滑らかに繋がり、回転し始める。

映画とはフィルムの回転だ。キャンプの映像を作るサミーの周りを、カメラは何度も回り込む。映画の神と出会う前の、ポスターを見つめる一回転のショット。現実と虚構、主観と客観、二律背反の概念が組み合わさり、新たな表現へと昇華される。

楽譜に穴が開き、現実にも映画にも穴が開く。家族の不和が、映画をリアルに変える。母の真実を知り、叔父=芸術と出会った結果生まれた戦争映画は「自分1人が全てをめちゃくちゃにしてしまう」状況を映す鏡だ。彼女を招いた夕食での会話、一対一の両親の切り返しに、周囲が勝手な意見を付け足してカオスの輪が広がるが、ギリギリのラインで会話=映画は破綻しない。

▽厳しさと優しさ
食い違う意見が円運動で繋がると書いたが、実際には繋がるように編集しているだけ、というのは言うまでもない。キャンプのあの映像は、視線が分かりやすく編集されているものの、実際に踊ったシーンで母が見た相手は曖昧にされている。あくまでサミーが見た現実、ということだ。

映画が現実を一つの輪として繋ぐとき、対立する2人を同時に幸せにはできない。いじめっ子の片割れ、ベニー、父も母も苦しむ。祖母の1人は亡くなり、女子2人は片方だけが恋を成就させる。

ラストの「何を撮るか」エピソードが語るように、現実と虚構のどちらかにフォーカスすることで前に進める。両方を取っては「面白くない」のが映画の残酷さだ。父の実像は、母の写真を見た時に伸びる影のおかげでようやく捉えられる。

一方で、片方を完全に切り捨てることもしない。ここが今作のポイントだろう。「遠くを見る男ばかりでつまらない。女を出した方がいい」というセリフは重要だ。

父やサミーには才能がある。遠くに行ける人間だ。サミーが映画を撮る上での苦労話は、一切描かれない。

対照的に、ベニーは仕事ができず、アリゾナに留まるしかない。スピルバーグは、憎むべきはずのベニーに、別れのシーンで精一杯の意地とプライドを体現させる。彼は道を行ったり来たりして、何とかサミーにカメラを手渡す。決して滑らかな回転ではない、不恰好な往復が泣ける。

ラストも同じだ。竜巻(円運動に反応する芸術家の母)やキャンプの道中の水たまり、水道、夜の雨など、不吉の象徴として水が描かれる今作。ラストショット、ハリウッドの道は雨で濡れている。問題は、濡れた路面をどの割合で捉えるのかということだ。

▽母親
妹に「いま編集するの?」と言われるシーン。サミーは地獄の家族会議の興奮を編集にぶつけている。妹は芸術に傾倒しかけるサミーに視線を向けてくれるが、あくまでサミーは映像を凝視する。

この場面、妹は母の代弁者の役割も果たしている。叔父さんが芸術家として、妹が家族としての苦悩を説明している。母もサミーと同様、二項対立に引き裂かれた人だったが、それを芸術に昇華できなかった(爪を切るべきか問題)。

今作は、母の苦しみを追体験する話でもある。母を許し、自由に生きようとした母を受け入れる。トラウマをコントロールするため、母との時間を再編集(捏造)する、A.I.のラストシーンを全編に引き延ばしたような映画、という見方もできる。

誰かを悪者にするのでも、全てが丸く収まるのでもない。それぞれが信じるものを突き通すだけのストーリー。やはりA.I.に似ているが、人間ドラマ、特に母親の描写に関しては、歴代作品の中でも一番良いのではないか。

▽神との出会い
反ユダヤ主義を含む排外主義、レイシズムに対する思いが込められた作品でもある(スピルバーグは今作のインタビューで「出来ることは会話しかない」と言っている)。スピルバーグのいじめ体験、自身のユダヤ性と映画作りを真っ直ぐ結びつけた点も興味深い。

熱狂的なキリスト教徒の彼女。ユダヤ人はイエスを信仰しない話がフォーカスされている。殴られた日の夜、ベッドでカメラを抱きしめるサミーは上を見上げ、壁に映る影で遊ぶ。この構図は彼女とキスする時、壁にかかったイエスの像を見ることで反復される。「神に出会ったの?」と聞かれ「宝石店で」と返すユダヤ人ギャグも気が利いているが、彼の宗教的実存は、当然ながらイエスにはない(イエス像のショットは、ティルトアップではなく「見上げたように編集されている」だけ)。

学習障害で文章が書くのが苦手なスピルバーグ。手紙を難儀しながら書いたのだろう。やがて信仰は実り、彼は信頼に足る神と出会う。映画という拠り所を得たことで、本当に見上げることを覚え、それを実践してみせる。

▽未知との遭遇
ラストショットの魅力が尽きない。映画愛を無邪気に爆発させた「未知との遭遇」のスピルバーグはもういない(彼が脚本を書いたのは未知との遭遇とA.I.と今作だけ)。空に飛び去るのではなく、空にカメラを向ける。

今作は一応、フェイブルマン(寓話男)の話という体を取っており、スピルバーグとサミーの間には客観性が担保されている。しかしラストのカメラが、メタ視点を一気に呼び起こす。先に待つ長いキャリアをあの動き一つですっ飛ばし、われわれの意識は、今この映画を撮っているスピルバーグと繋がる。

「レディ・プレイヤー1」で世界の創造主に「私の作った世界で遊んでくれてありがとう」と言わせた時には、もう引退か?と不安になったが、まだまだ地に足を付けて、カメラを回し続けるようだ。ラストの軽やかな“Thank you", "My pleasure”が心地よい。86点。
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