巴里得撤

フェイブルマンズの巴里得撤のレビュー・感想・評価

フェイブルマンズ(2022年製作の映画)
4.0
映画についての映画と言えば、『NOPE』が「観る/観られる」という関係における非対称性を描いていたけど、この作品で強調されるのは、カメラの「コチラ/アチラ」。

主人公サミーは。常に撮る側でカメラのコチラ側にいる。だから当然、彼の姿がフィルムに焼き付けられることはない。そして、現実に起こっていることを、肉眼ではなく常にカメラ越しに眺めている。

はたして、サミーは「現実」を観ていると言えるのか?

もちろん、この映画も映画である以上、この構造が当てはまるわけだけど、少々ねじれが生じている。カメラのコチラ側にいるのはスピルバーグであり、アチラ側にいるのはその分身であるサミー。つまり、カメラの両側にスピルバーグが立っているわけだ。

映画の終盤である人物が「現実は映画とは違う」と言い放つ。ならば、この映画はどこまで現実を写しとっているのか?

このセリフが口にされるまでの経緯も興味深い。この人物は「観る」こと、そして現実を映像として切り取ることの暴力性をヒシヒシと感じ、スクリーンに映る自分と現実の自分とのギャップに無力感を覚える。

一方、サミーはと言えば「カメラは現実を映しとる」と応える。ナイーヴな発言にも思えるけど、彼が撮った映像が、母であるミッツィーの「現実」をえぐりだしたことを思うと、一抹の哀しみみたいなものも感じる。


まぁ、こんな感じであれこれ考えるのも楽しいけど、この映画の本筋は「家族」というかスピルバーグの母親の物語だ。

ミシェル・ウィリアムズ演じる母・ミッツィの存在の生々しさ。

スピルバーグはサミーと母親との共通点をことさらに強調する。曰く「母親譲りの芸術家気質」。

「アートと家族に引き裂かれる」というのは、予告編でも引用されたセリフで、母・ミッツィの行動も、なんとなくその文脈で理解される。

しかし、フェイブルマン家を壊したのは、「アート」ではなく、ミッツィのエゴなのではないかとも思える。母の自己中心的な生き方を正当化するためにスピルバーグは「アート」を持ち出したんじゃないか。

ここで、考えなくてはいけないのは、「アート」ってなんぞやということ。

スピルバーグにとって初めての(そして唯一の?)ミューズは母親だった。彼女の振る舞いだけではなく、生き方そのものがスピルバーグにインスピレーションを与えた。

つまり、母が体現する「アート」とは、音楽的な才能だけではない。スピルバーグにとっては、母の生きざまそのものが「アート」だった。

そのことは、父・バートも理解していた。だから、ミッツィを愛し続ける、

映画の最終盤のバートのつぶやきによって、映画タイトルの意味が初めてわかる。『フェイブルマンズ』つまり「フェイブルマン家の人々」。たとえ、バラバラになっても家族は家族のまま。そうスピルバーグは信じている。そう母に伝えたかった。


スピルバーグの映画作家としての深さに圧倒される一作。
巴里得撤

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