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蛇の穴のニューランドのレビュー・感想・評価

蛇の穴(1948年製作の映画)
3.4
☑️『蛇の穴』及び『国境の南』▶️▶️
デハヴィランドは若い時の隠れた芯の強さは、次第に前面に出てくるが、基本的に与えられた枠の中で芝居の出来る人で、いわれる程はみ出し·独演はない気がする。妹の方だって、『レベッカ』の二番煎じみたいな役が多かったが、今回は『女たち』を再見しただけだが、姉の真っ当な重力に対し、軽くてどこか翔んでるコメディエンヌとしての才分が本来本当にうまかったと思う。
『蛇の穴』、精神病院の女患者が、夫·主治医·同じ患者らを通し、原因を記憶と反応パターンから明らかにして解放されてく、おそらく戦後フロイトも精神分析も広く一般化し、ジャンル化した中の作品だが、なかなか骨太い、独自化·引寄せて不自然さもあるが、大きく押しきる作。「幼児期を中心とした、両親の愛への飢餓と·その反動と偶然による罪の意識、を始めとする複合的記憶」がもたらす精神の変調(別の異性を拒み·受け入れても逃げる。特定の時が刻まれてて、時の感覚と行動を狂わせてく)、その治療の際の恒に付き添ってくれてる(人間の)存在の大きさ(、よって、蛇の穴の多数の患者をもう一人の自分が見下ろしてる感覚を得、また付き添い者への恋愛感情から脱け出せる位に回復してくると、自分より快復の遅い者に付き添いを心掛けるように)を、見極めてく、安易な退院に行かず、患者の数の多い抜け出せない棟に進む程に闇の奥底が見えてきて、付き添う存在=主治医の医師と共に解明して、彼への執着からも解放され、記憶の束縛から離れた夫の元へもどってゆく話。
ちともう古めかしいのだが、俯瞰め·仰角とそれを活かした縦や廻るやフォローの移動、『ショック集団』より手前の患者の各キャラら、センセーショナルになりがちで、しっかり個人らの内に根を張ってる。ラストのヒロインの次の快復予定者の表情が計算なく晴れがましい。リトヴァクらしい、タイミングをずらし遅らせてまでの正攻法、スケール、捌きと言うべきか。
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『国境の南』。冒頭の映画スタジオに乗り込んでの買い取ってくれとストーリーを披露、終盤の身の危険を躱しての墨から米へ越境しての彼女の病院へのカーチェイス経由の駆けつけ、の常識越え·破天荒さはあるが、ブラケット=ワイルダー=ライゼンにしては、才気·ウィットがなかなか現れず、視覚テクニック的にも·引っ掛けトリックばれモヤモヤ壗も、究めて一途でもどかしく·敢えてかモタモタし、それが心をうってくる作品。
米墨国境で足止めの、欧州から来て米国入国·真剣を得んとしてる、海千山千の男が、米国に入国·市民権を得るのに、国境行き来の米女教師に目を付け、落とし結婚す。が、スッキリとサイナラ出来ぬ。それにイライラの先にNY落ち合い約束の相方が、彼女に事をばらし、車の横転事故を招く。が、悲劇の底無し沼へ、とはならぬ。
終盤、彼女の方も、校長の愛人で、その立場と大学院行きを捨てての、結婚決意と分かり、すぐミスに戻れるよう、抱こうともせぬ彼の、口実の脱臼を見抜いていた気もしてくる。真相分かっても、後で入国検査官に彼に不利な証言は一切せず、只·バラした相方の女に出ていく事を毅然と強いる。彼女の方は詐欺ではないが·思いきった賭けを無意識にして、彼の方も相手の期待を越えて、思いやり·愛を自らの思惑を退かし深めて行き、現実は変形しようと大胆に着実に本質的に乗り越えられるものとなっていった、スマートではない·意志の先導してく手応え。意識のない彼女の傍らで「(ずっと)一緒」を限りなく語る彼の力で快復がもたらされ、検査官も彼の収監を見逃すに至る。この辺りになると、先の3人の作家合体の代表味わいともなってるが、それ以上に、ポジティブな命の本来的な形、そのより合わさりを感ず。
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