Habby中野

理想郷のHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

理想郷(2022年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

この前見たアニメの敵キャラの能力。自分と相手の力量を天秤にかけ、重かった方(力が大きかった方)がそうでない方を完全に従属させるという能力。戦いではなくそのための能力値で結果だけを決める。なんて明快で、平和的(?)で、邪悪で、短絡的な能力なのかと思う。天秤は、乗せられたものだけを量る。思念も情感もなく、無機的にその重さだけを。
自然の美しい村を観光地化しオーガニックに興そうとする移住者と、風力発電の補償金で目の前の生活を正したい貧しい村民。教養を身につけ革新的に動く前者と、保守的で受動的で怠慢な後者。移住者は村の者から虐げられ、しかし自らの正しさを証明してみせんとひたむきに抗う。被害と加害、の天秤の傾き。では正しさは、どちらに傾くのだろう?
嫌がらせの証拠を撮るために持ち出したカメラは、しかしまるで凶器のように振り回され、恐れられる。このカメラは何だ。まるで、傲慢な動画撮影者に街中で振りかざされ、忌み嫌われるカメラだ。何かを捉える─写し、瞬間を他者を所有するために力を振るうカメラ。見せるためではなく保存するためでもなく撃ち抜くことが目的のライフルのようなカメラ。
彼がそれを掴む時、”我々のカメラ”はその場に存在感を持つ。飲み屋のテーブル、売店のレジ、パーティーの席に、森の木立の間に。まるで小津の映画のように、我々、いや”私”はその場にいる。彼が撮る時、我々もまたその姿を撮っている。
そして、彼のカメラはついに本来の意味では機能しない。警察は証拠として取り合わず、森の中で発見されたデータは破損して再生できない。だが、我々のカメラはすべてを撮った。警察には見れない。我々だけが見ることができる。カメラは世界を所有するためではなく、見るためにある。そして今一度問われよう、天秤は、どちらに傾いているのか。
物理的には、外から来た者が被害者で、村の住民が加害者。しかし村民の生活を中心に置いた時にそれは逆転する。さらには村民の縋る風力発電も外部の資本によるものだ。
革新/保守、外部/内部、理想/現実─このねじれの中で、「誰が」正しいかは論じ得ない。それらは天秤にはかからない。かけるべきものが違う。ただあるのは加害の悪だととりあえずは言うしかない。善の善性を、悪の悪性を分かって初めて人は裁きに至る。ねじれをねじれのまま断罪することは許されない。そのためにまずは見ること。振りかざすのではなく。我々は天秤の消滅を見たのだから。
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