YasujiOshiba

殺しを呼ぶ卵 最長版のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

殺しを呼ぶ卵 最長版(1968年製作の映画)
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シネマカリテ。なぎちゃんと。スクリーンで、あのキレキレのカラフルな映像が見たかったんだよね。音楽もまたよいのよね。ブルーノ・マデルナは音楽の世界におけるクエスティなのかもしれない。調整音楽の解体。クエスティの映画はジャンル映画の解体。

そうはいってもクエスティは、ジャンル映画をむしろ称揚する。多くのヨーロッパ映画が文学と堕しゆき、アメリカのジャンル映画のほうが映画的だというのだ。クエスティの言葉を引用しておこう。

「なぜ私はヨーロッパ映画よりもアメリカ映画を好むのでしょうか。〔…〕なぜならヨーロッパの映画は、文学を揺るがしながら、大衆的で平均的な消費のなかへと持ち込む傾向があり、その一方で映画に特有の言語を忘れ、自らが文学になってゆきます。それは非常に美しく、誰からも否定されず、感動的でさえあるのです。しかしアメリカ映画は、わたしが言っているのはアメリカのジャンル映画のことなのですが、感情に直接的に到達する必要から、昔ながらの映画のイメージ・リズム・モンタージュ・光・写真に訴えるのです」
(Perché, tutto sommato, io preferisco il cinema americano a quello europeo? […] Perché in Europa il cinema tende a scalzare la letteratura nel consumo medio popolare, dimenticando, invece, il linguaggio proprio del cinema e diventa letteratura; molto bella anche, nessuno dice di no, anche molto emozionante. Mentre il cinema americano, e parlo proprio di quello di genere, nella sua necessità di arrivare dritto alle emozioni, si appella al vecchio cinema immagine-ritmo-montaggio-luce-fotografia.)[Andrea Schiavone, "L'occhio ribelle di Giulio Questi", Amarganta, 2015 ]

 ジャンル映画はしかしながらインテリ批評家から評判が悪い。絵を重視するのはわかる。しかしストーリーがなおざりになるというのだ。クエスティはそんなのはくそくらえという。

「知識人は言うでしょう。《しかし、ストーリーはどうするのか…》と。ストーリーなんてくそくらえです。新しい言語活動(linguaggio)にはシンプルなストーリが必要なのです。凡庸なものならばなおよい。なぜなら、生きているのは言語活動であり、物語ではないのですからね。ストーリーならすでに語り尽くされている。それなのに、連中ときたらその内容の批判をしようと言うのですかね。バカじゃないのでしょうかね。考えるべきは言語活動の問題であり、革新的なものがもたらされえるのは、まさにそこからなのですから。」
(Gli intellettuali dicono: ‘Sì, ma la storia…’, ma che cazzo me ne frega della storia? I linguaggi nuovi richiedono storie semplici, se banali ancora meglio; perché è il linguaggio che vive, non è la storia. È stato raccontato tutto, dai, e ancora questi stanno a fare la critica ai contenuti… Ma siamo diventati scemi? Sono i problemi dei linguaggi che vanno affrontati, è da lì che vengono le invenzioni.)[Ibid.]

なるほど、この映画もまた「ストーリーはどうした?」というものを拒絶する。音楽と、カメラと、編集と、そして詩としてのセリフの応酬が、映画の言語活動を起動させ、ぼくらは生の映画に触れることになる。それが「クエスティ体験」というものなのだろう。


2022/12/21 追記

- ガブリー(エヴァ・オーリン)はアンナ(ロッロブリジダ)の姪という設定なのね。その両親が亡くなった時の自動車事故のフラッシュバックが、今回のポスターの映像。映画のなかではこのフラッシュバックは、じつに印象的な編集によって、意識に訴えるサブリミナルとして立ち上がる。CMのテクニックとして禁止されているサブリミナルは、無意識に訴えるものなのだけど、フランコ・アルカッリの編集は、そのサブリミナルを意識化させる。ちょうどカーペンターの『ゼイリブ』(1988)が通俗的なSFの形式をとって表現したものなのだけど、それを1968年にやっているところがクエスティ&アルカッリのすごいところ。

- 【最長版】という売り込み。映像は修復された、カットされた部分をおぎなったもの。当時はテレビに上映権を売らねばらず、90分というフォーマットが基本になっていたという。だから100分を超える原盤は20ふんぐらいカットされたのではないかというのだ。
 カットされた部分をおぎない、映像も修復されたものが、YouTubeを見ると2014年にトリノ映画祭でクエスティの短編『 il passo 』ともに上映されたようだ。上映の前に紹介されるクエスティの姿。味があってよい。(https://www.youtube.com/watch?v=d9e05i1qCgI)
 ぼくが持っているDVDは87分と表記されているけれど、今回の上映版は105分。カットされば部分は18分ほど。一番印象的なのは、マルコ(トランティニアン)の大学時代の友人で、電気ショックのために記憶を失った男。妻のアンナと出会う前からの親しい友人。かつての「自己」を失い、誰もが消費者となり消費される消費社会においては、ほとんど無価値の存在。そして、そんな男と、ひそかに連帯して、ひそかな反逆を試みようとするマルコ。
 そんな図式が、今回の最長版でははっきりと見えるようになったわけだ。

- 原題は「La morte ha fatto l'uovo」(死が卵を産んだ)。端的に言えば、あの黒い犬が粉砕機にかけられたあとで、頭と羽がなくすべてが肉だけという奇形の鶏(まさに肉の卵)が生まれ、主人公たちの「死」の後にも養鶏場では卵が産まれ続けているというラストシーンのこと。

この素晴らしいタイトルはどうやって思いついたのかと尋ねられたクエスティは、「おぼえてないね。おぼえているのはウィスキーをずいぶん飲んでたってこと」だと答えているが、こんな言葉を残している。

「当時は経済ブームの時代でした。工業化は、すべてを飲み込む山のような波であり、未来への讃歌であり、狂ったように生産物を包装しながら、そこに魂のあるなしが問われることはありませんでした。だから、まだ生きている製品は、恐怖と苦悩のあまりに泣き叫んでいたのです。大規模な養鶏場は象徴的でした。工業化はいかなる障壁も許容することはありませんでしたし、あらゆるものが同じ法に従っていたのです。雄鶏は人間の男、雌鶏は人間の女、そして雛は子供でした。そんな連中の上に富が築かれていたのです。そして、あらゆるもののに勝利していたものこそは、白く、すべすべと、完璧な卵だったのであり、そのなかには生命が閉じ込められていたのです」
(Erano gli anni del boom economico. L’industrializzazione era una marea montante che travolgeva tutto, un inno al futuro, un frenetico impacchettamento di prodotti, senza distinzione tra inanimato e animato. I prodotti ancora vivi gridavano di terrore e di dolore. I grandi allevamenti di polli ne erano un simbolo. L’industrializzazione non tollerava barriere e tutto quanto ubbidiva alle stesse leggi. Ogni pollo era un uomo, ogni gallina una donna, ogni pulcino un bambino. Su di loro si costruiva la ricchezza. E su tutto trionfava l’uovo, bianco, liscio, perfetto, con la vita chiusa dentro.) [in Op.cit.] 
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