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目次
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『吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界』に投稿された感想・評価
leylaの感想・評価
2024/07/17 14:24
4.0
吉田監督の言葉を拾った自分用覚え書きなので長いです。スルーしてください。
小津さんがなぜあのような作風になったのか。書籍やWikipediaなどを読めば載っていそうな内容だが、吉田喜重監督自らの言葉でナレーションもしているところに価値を感じるドキュメンタリー。『東京物語』が全回にわたり登場する。吉田監督は毎回似たような説明をしているのだが、それほど『東京物語』への想いが強いのだと思う。
構成・演出/吉田喜重監督
1993年のNHK ETV特集を収録したもの
45分×4回
反復によってズレが起こることに映画の喜びを見出した小津さん。小津さんは映画によって新しい表現ができるとは信じていなかった。創造することを不可能と思う人間が映画を作ることの矛盾が、小津的作品を生み出していったのである。映画に出来ることと言えば、この現実、この世界をカメラのフレーム、画面に切り取り、モンタージュし、ただ観客に示すだけだと考えた。
①サイレントからトーキーへ
映画との出会い 反復とずれ
吉田監督と生前の小津さんとの想い出
1度目は1963年、松竹に所属している時の鎌倉での新年会で小津さんが吉田監督に酒を注いだ。吉田監督が小津さんのある作品を小津さんらしくないと雑誌に批判していたことへの小津さんらしい答えだった。それから2時間、ほとんど言葉を交わすことなく酒を飲み交わした。
2度目はその年の11月、入院中の小津さんを見舞ったとき、「映画はドラマ、アクシデントではない」とひと言ポツンと語った。間もなく小津さんは60歳で亡くなった。
東京、深川が小津さんの出生の地。1903年12月12日 5人兄弟の次男として生まれる。日露戦争が始まろうとする明治の時代。
小津さんは10歳で父を東京に残し、両親の故郷である三重県松坂で育つ。中学時代は映画を愛しアメリカ映画に魅せられ、いつしか映画監督になることを夢見た。中学卒業後、進学をあきらめ19歳で小学校の代用教員となる(1年間)。その後、家族が再び東京の父の元に暮らすことになる。20歳で松竹キネマに入社(知り合いの紹介)。父は反対だった。
『懺悔の刃』1927年 小津さん24歳
小津さんの最初の映画。小津さんの生きた原体験はサイレントを通して得たものであった。
『若き日』1929年
現存する小津作品としては最も古い。
アメリカ映画を模倣していた。カメラを通してこの世界を観ることの喜びを表していた。
『朗らかに歩め』1930年
アメリカ映画の影響が強い。映画は世界共通の言語でありサイレントでは物語のプロットは俳優の身振りによって伝えられた。観客を笑いにまねくアクションに国境はない。カメラそのものが小津さん自身であった。
『落第はしたけれど』1930年
チャップリンやハロルド・ロイドのコメディから模倣、引用。小津さんは映画によって新しい創造ができるとは思えなかった。映画はありのままの現実、人間を映し出しているにすぎない。それをつなぎ合わせモンタージュして何かを物語るにしても、現実に依存した表現にすぎない。それを新たな創造と思い込むのは欺瞞であった。小津さんはそのように考える人であった。
満州事変が起こり、世の中が変わる。アメリカを模倣した小津さんの映画もドタバタ喜劇から失業したサラリーマンを描くようになっていく。
『東京の合唱』1931年
アメリカ映画からの脱却。小津作品への確かな兆しはここから。アメリカ仕立てのギャグやスラップスティックを引用しつつ、異なった文脈で語りかけていく。これは、いつしか身につけた小津さんの表現であった。サイレントである限り、同じ身振り、反復することで意味を伝えるしかない。このおび正しい動作の反復、身振りにズレが起こることを小津さんは見逃さなかった。同じ繰り返しは二度とありえない。同じ動作でも二度目は観る人によって何かが付け加えられる。そこに現実の在りようを読み取った。事物や出来事は無秩序に重なり合うかに見える現実。これを我々は世界と呼ぶしかない。ささやかな動作の反復とズレによってようやく姿を表すもの、そこに小津さんが新たに映画の喜びを見出した。
『生まれてはみたけれど』1932年
サラリーマンの悲哀を描いた作品。
大人の身振りを子供が反復することによってズレが生じる。子供が大人以上の怒りを社会に向かって表すのだ。
映画は大衆的になった。大衆社会が映画を育てた。また時代の不幸も読み取れる。生活に逼迫すると人々は映画に夢を見るようになる。トーキーの発明が大衆の希望に応えた。しかし、小津さんはサイレントにこだわった。映像が捉えるこの現実は何の脈略もないただの断片にすぎない。小津さんにはトーキーの筋道立ったドラマは“まやかし”に思えたのである。
『東京の女』1933年
時代の不安を色濃く反映している作品。自分のため、夜に働く姉を知り弟が自殺をする。小津さんは今作でストーリーを語るために映像のモンタージュに熱中する。刻む時計、天井に揺らぐ水の反射 湯気を拭き上げるやかん、脈略のない映像を積み重ね、モンタージュすることによって弟の安否を気遣う姉の心を暗示し、弟の自殺を劇的に物語るものであった。
『東京の宿』 1935年
セリフはサイレント、音楽が挿入されたサウンド版映画。
時代は軍国主義に傾斜し、国家の検閲が加えられていった。小津さんはモダンな喜劇を捨て、社会の底辺に生きる庶民を描くようになる。男の心を花火、のれん、コップの酒 ネオンで表現する。脈略のない映像を積み重ねることにより映画はストーリーを自由に語り創造することができる。小津さんは男が強盗に入るドラマチックな映像を意識的に欠如させた。映像によって全てが語れるわけではないという小津さんのメッセージ、警告であった。あるがままの現実を描くことは、無駄なことを加えるだけだと考えた。
『ひとり息子』1936年
小津さんの現存するトーキー作品では最も古いもの。
見えない都市、東京を背景にしている。無秩序な世界としての東京が、母と息子の前に広がる。映画の中の映画として「未完成交響曲」が登場する。映画とは何かを観客に意識させるため、映画の中に映画を表現した。映画を見る親子を通して、息子のインテリの悲哀とそれを理解しえない母を反復とズレで見せていく。外国の自由な開かれた映像を引用したのは、自由を抑圧する軍国主義の日本への小津さんなりの反撥であった。
②戦中戦後の軌跡
映画が言葉を発するとき
1937年、小津さんが34歳の時に出兵する。日中戦争で上海、南京など、2年間中国に留まる。
『戸田家の兄弟』1940年(小津さんは1939年に帰還)
戦争体験、軍国主義的風潮は今作には見られない。家族とは何かを描くことは、家族の崩壊を描くこと。
『父ありき』1942年
戦禍が拡大する最中の作品でこの時代に奇跡のように静かな作品。
父と息子の反復の釣りのシーン。繰り返す行動にこちらが心情を汲み取っていく。清々しいほど他人の関係で語り合う父と息子。再会した父と子は渓流で再び流し釣りをする。無言で反復する父と子。
息子は父の最期に立ち会い、父と子ではなく、ひとりの人間の尊厳ある死を看取ることになる。戦争により軽んじられる死に対する小津さんの抵抗でもあった。
40歳のとき、小津さんは再び戦争へ行く。今度は映画監督として。小津さんは1人の軍人も描いたことがない。あの時代では至難のことであった。そして戦後、荒廃した東京を目に焼き付ける。
『長屋紳士録』1947年
戦後初の作品。小津さんは現実に作為を加えることが苦手だった。
『風の中の雌鶏』1948年
戦後の言いようのない怒りを“階段”を反復して映すことで表現した。
人々はストーリーを求めた。いかに語らないかに心を砕いてきた小津さんは時代から離れて生きるしかなかった。小津さんは平和の時代がふさわしい。
③晩春と東京物語
限りなく開かれた映像
『晩春』1949年
もはや敗戦の名残はない。ローポジからの役者の視線は宙に漂い拡散する。俳優の演技を曖昧にし、そこに観客が意味を得ないよう配慮するそこが小津さんがローポジにこだわる理由である。
今作では娘が父のお見合い相手に嫉妬するシーンがある。原節子さんがひとりの人間の露わな姿、俳優の生身の人間を通したリアルな感情になる。小津さんの作品においては演技の破壊だが、そこが演技の魅力でもある。その途端、父と娘という関係から解き放たれ、まぎれもなく男と女の関係のように映った。
笠智衆と原節子の親子関係を、壺という事物としての映像が重ねられることによって、男と女として艶めかしい存在として感じられていく。事物のまなざしによって関係性を曖昧な存在に変えたのである。セックスという言葉で表現する必要はなかった。
小津さんは、度々結婚式を描く。人間がかりそめにも演技することが許されるのはそういう儀式の時である。俳優は与えられた演技の役割と悲しいまでに一致する。それが結婚式あるいは葬式であった。
戦後の日本が平穏を取り戻した時 小津さんはいわゆる小津的作品を世に出す。
『東京物語』1953年 小津さん50歳
最も小津的な作品。人間の晩年の目で映画を作ろうとした。カメラを見据えて話すことに観客の介入を許さない聖なる夫婦の絆がある。
東京の風景は、老夫婦にとっては聞いたことのあるありきたりの東京でしかなかった。それは東京がそこにありながら不在の空間であることを意味する。人生もまた東京と同じようにそこにありながら見えない存在であった。知り尽くした夫婦であってもそれが何であるかを知らず、死に至るまで人生を生きていくしかない。それが東京物語に隠された今ひとつの物語であった。
病に倒れた妻に笠智衆が言う美しい言葉「治るよ、治る、治る、治るさ」繰り返し反復されるうちに、同じ言葉でありながら意味がズレていき、観客は死が避けられないことを知り、夫は妻の死を自覚し、納得していく。反復とズレが、小津さんが人間に注ぐまなざしである。
葬儀で集まった東京の兄弟たちは葬儀が終わると悲しい遺族としての演技から解放される。兄弟たちは海の見える料亭で勝手気ままに語り合う。父は黙って酒に酔う。他人である嫁も口を閉ざし、与えられた遺族としての演技を全うする。
兄弟たちが帰った後で、血の繋がらない息子の嫁(原節子)と父(笠智衆)が2人きりになり、偽りの家族を演じる。それらしく演じるほどにリアルに見えてくる。まやかしの演技に耐えきれなくなった嫁が「私、そんなおっしゃるほどのいい人間じゃありません」と告白する。だが老人はなおも義理の父として偽りの演技を続ける。嫁は生身の人間としての自分と偽りの演技者としての自分との間で揺れ動く。このようにして小津さんは演技者としての俳優とその人間性のいずれにも目を注ぎ、両方をすくい上げようとする。帰りの電車で、他人でありながら我が子以上に気遣ってくれた義父から贈られた懐中時計を見つめる嫁。ここでも事物としての時計の方が人間を見ている。
この世は不在に満ちている。『東京物語』の最後で、画面の中心を外れて座る老人の背中に広がる空間が妻の不在を告げている。その背に亡き妻が見つめるまなざしを感じる。不在となってはじめて老人は、自分の浅はかさ、迂闊さを穏やかに認め、心静かに受け入れるのである。
小津さんは、映像が1つの意味しか持ち得ない閉ざされた映画であることを嫌った。限りなく開かれてその意味が浮遊する映画、それが小津さんの作品であった。
④その短すぎた晩年
無秩序な世界につつまれて
小津さんは、晩年を早くから意識する人で、人間の晩年にこだわった。東京と人生をなぞり、しばしば描いた。
『早春』1956年
東京のサラリーマンを主人公にした作品。
都会の現代社会の縮図を描くというよりも、サラリーマンの在りようが人生そのものに似ているから描くのである。反復される暮らしの中でわずかに起こるズレに一喜一憂する人間の姿。
不倫しているシーンでは、リズミカルに会話を交わし、役者は自然な演技をする。小津さんらしいローポジが見られない。これは、映画のまやかしであり、俗なる場面だからである。映画の中の映画とも言える浮気のストーリーは、その後に展開する聖なる映画のための仕掛けられたゲームであった。小津さんは聖・俗を重ね合わせながら映画を作る。転勤=偶然のアクシデント、退職=死を表す。俗なる映画の後に聖なる映画が立ち現れるのが小津さんの作品だ。
ラストに夫婦が東京へ向かう電車を見るシーン。電車のカットは現実の断片で、この風景の乱入こそが浮気の物語、俗なる映画を一瞬にしてかき消し、聖なる場面に変えるのだった。
小津さんは、晩年に近づくにつれて反復とズレを見出しながら作品を発表していく。人生を反復とズレとして捉える小津さんであれば自然の成り行きであった。
『秋日和』1960年
『晩春』の反復で、そこにズレを見出すために、人生を知り尽くした男たちが俗なる欲望として聖なる未亡人と娘に介入し、聖なる関係を壊していく。小津さんは祝福された情景を描こうとはしない。娘に去られた母だけが俗なるゲームから除外され、残された母に死の影が差す。未亡人は最後に俗なるゲームを懐かしく思い出すのだった。
現実の小津さんの生活もまた反復とズレを繰り返している。晩年は北鎌倉に住居を構え母と暮らした。小津さんの母は86歳まで生きた長寿の人だったので、小津さんの長寿を誰しもが疑わなかった。
『秋刀魚の味』1962年
これまでの小津作品を反復し、少しずつズラしながら展開していく物語。
過去は思い返すことはできても、我々はその過去を二度と生きることはできない。過去・現在から断ち切られ未来を見通せなくても、それでも生きて行くのが人間であった。戦争も娘の結婚も過ぎ去ってしまえば同じ過去として老人の前にある。
小津さんの晩年は短すぎた。『秋刀魚の味』を作った翌年癌を発病。小津さんの墓に刻まれた「無」は無情の無、無秩序なこの世界を表す「無」でもあった。
亡くなる前、病院で小津さんは吉田監督に言った。
「映画はドラマ。アクシデントではない」
映画の中のドラマを“まやかし”と考え、淡々とした日々の出来事をアクシデントのように描いた小津さんがなぜそのように語ったのか。
ドラマは映画の中にあったのではなく、小津さんと映画の間にドラマがあったのだ…。
カメラが映し出す映像を通して知ったこの世界。あるいは人間の無秩序さに耐えようとして小津さんは映画を作り続けた。そのことが小津さんのドラマであり映画であった。今の私にはそのように思われる。
#小津さん
#ドキュメンタリー!
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26
おまめの感想・評価
2024/11/02 03:03
5.0
小津安二郎論であり、同時に吉田喜重の映画論である。
『見ることのアナーキズム』を書いた吉田喜重らしい、見ることにどこまでも実直に向き合った作品。
これを映画を見るためのバイブルとしたい
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0
木の感想・評価
2024/01/21 18:36
-
全く作品みたことなかっなけど吉田喜重すごいと思った。吉田喜重が撮った現在のショットと小津作品のモンタージュすごすぎ。
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