三樹夫

ゴジラ-1.0の三樹夫のネタバレレビュー・内容・結末

ゴジラ-1.0(2023年製作の映画)
2.9

このレビューはネタバレを含みます

ゴジラが暴れているのはいいが人間のドラマパートとこの映画の作りそのものがダメ。ダメなところは完全に山崎貴の底の浅さに起因するものだ。
この映画のゴジラはモンスターとして描かれている。怪獣のような神的な存在ではなく、モンスターという生物だ。ゴジラをどうやって倒そうかというので、水圧を利用して倒そうとするわだつみ作戦はゴジラが生物でなければ機能し得ない。モンスターとしてのゴジラというのでエメゴジ感があり、この映画は基本的にエメゴジで初代『ゴジラ』をしている。
また今作のゴジラはモンスターという以外に象徴の側面も持っている。ゴジラがこの映画で何を象徴しているかというと、二回目の太平洋戦争だ。恐竜が放射能を浴びてゴジラになるという初代と同じ流れが踏まれているが、核の象徴というのはこの映画のゴジラではあくまで設定としか機能しておらず、二回目の太平洋戦争の象徴の方に軸足があるため核の象徴としての要素は薄く、キノコ雲に黒い雨と核的なものを映像で見せているだけでとってつけた感がある。
船が吹っ飛んでくるなど、モンスターとしてのゴジラが暴れているのは観ていて楽しかった。ヒッチコック的演出で存在を匂わせつつ全身はちょっとずつ見せていくというのではなく、いきなりゴジラの姿を見せるというので、モンスターパニック的に見せたいんだなというのが分かる。エメゴジはモンスターだったが存在を匂わせつつちょっとずつ見せていくという演出だったが、即物的なモンスターパニックでも足し算的な楽しみがあれば別に構わないと思っている。ただし他作品のいいとこ取り感はあり、どこかで観たことあるような感覚を覚える。爆発が起き外側へ向かう凄い衝撃波の後に爆心地の内側に向かって空気が集まっていくという演出は庵野がすでにアニメでやっていたし、背びれがどんどん青く染まっていくのはギャレゴジで、ギャレゴジの方がシームレスに背びれが青く染まっていくのでチャージ感がよりあり観ていて気持ち良かったので劣化版感がある。制作時期的にパクったわけではないが、浜辺美波の電車ぶら下がりは『ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE』で観たやつだし、あっちの方が演出が上手かった。

人間パートは観ていて退屈だ。クサい台詞にクサい演技にクサい演出に悪い意味でTHE邦画的なドラマパートだ。思っていることをすぐ口に出して言うし、腹の中で思っていたとしても言うわけないことも口に出して言うし、アキコと仲間の前でそれ言うみたいなことも言う。演技も演出も酷い。大声で叫べば熱演で映画の盛り上がりと思うのは本当にやめて欲しい。はいここは嫌味を言ってますよ、はいここは怒っていますよというもの凄い記号的な演技と演出で本当に退屈する。神木隆之介が浜辺美波にトラウマを告白するシーンはただ叫んでいるだけで、あまりにも酷すぎて失笑してしまう。引き算が出来ておらず多弁過ぎてスポイルになっており、作戦前夜に建物から出て山田裕貴が佐々木蔵之介に僕も戦いたいんですみたいなこと言うシーンはその一言だけで十分なのに、その後に山田裕貴がベラベラ喋り過ぎ。学者や小僧ってあだ名つけるのも本当にダッサイな。どんなセンスしてるの。山田裕貴が多数の船を引き連れやってくる逆シャアの終盤のスーパー劣化版も酷くて、観ていて共感性羞恥を覚えてしまった。
主人公は太平洋戦争中に特攻から逃げ生き延びたことで戦争に囚われている、『仁義なき戦い 広島死闘篇』の山中のような男だ。『仁義なき戦い 広島死闘篇』の山中のドラマは本当に素晴らしかったが、ただ力量のない監督だと同じようなキャラをしてこんなことになるのかと悪いサンプルを目の当たりにしてしまった。神木隆之介と浜辺美波、北大路欣也と梶芽衣子と男女のキャラクターで配置しているのも同じなのになんでこんなことになるんだろう。
この映画はわだつみ作戦がオキシジェン・デストロイヤーなど他作品を色々つまみ食いしているが大体はただの劣化版に着地している。主人公が特攻から逃げたというので、最初の段階でこれ最後にゴジラに特攻するんじゃないだろうなと思うが全くその通りで頭を抱えてしまう。

この映画が何をやろうとしたかというと、ゴジラを使って僕の理想の太平洋戦争をしたかったということだ。実際の太平洋戦争はクズみたいな奴がのさばってバカみたいな作戦して人いっぱい死んでしかも負けたじゃん、だからさ対ゴジラという二回目の太平洋戦争は皆いい人ばかりだし、インパール作戦みたいなバカみたいなことせずちゃんと頭使うし、一人も死なず、しかも勝つんだよというドン引きなことをしている。人が死なないはご都合主義もいいところで、結構ガバガバな作戦でゴジラがちょっとでも攻撃を加えてきたら人が死ぬ可能性大のかなり命の危険がある作戦なのに、これで吉岡秀隆が誰一人として死なないのを誇りにしようはただの欺瞞だし、特攻を仕掛けて直前で脱出したから死んでませんも呆れるばかりだ。山崎貴は戦争について何を考えているんだという感情がわいてくる。彼の中には良い戦争と悪い戦争なるものがあるんだろうか。良い戦争なんかねえよ。太平洋戦争は皆いい人ばかりでバカみたいな作戦をせず頭使って人は死なず勝っていたら良かったみたいに考えているのか。スピルバーグが好きみたいだから『プライベート・ライアン』は絶対観ているだろうが、あの映画の冒頭20分観たら絶対戦争なんかいかんわと思うんだけど、それでこの戦争観は無邪気というか浅はかというか、この内容だと僕の理想の太平洋戦争をやっているだけだと制作段階で指摘する人はいなかったのだろうか。脚本に関して東宝の若手社員にダメ出しの感想出させたらしいが、ダメ出しした上でこれ?最低限どんな人間でも気づく台詞のクサさは思いっきり残っているのはどういうことなんだろ。
国主導ではなくあくまで民間の自主的な有志だからと言い訳するが、やってることは太平洋戦争と変わらん。何とかして特攻賛美を避けようとしていたり(避けられてないけど)、戦争の美化を避けようとしているが、誰かが貧乏くじを引かなければならないというところには完全に自己犠牲に対する自己陶酔があり、戦争を理想化しているのを隠し切れていない。この映画は山崎貴曰く反戦らしいのだが、どこが?思いっきり僕の理想の太平洋戦争を楽しんでるやん。戦争を象徴するゴジラが街を襲い暴れて恐ろしいのが、戦争は恐ろしいんやっていうことなのか。反戦の意図はあってもいざ映画となった時に、映画が下手で反転してしまっている。
ただ、もしかしたらビジネスマンが仕掛ける戦争ポルノみたいな感じで、観客を気持ちよくさせたら映画ヒットするじゃんみたいな拝金主義的考えであえてやっている可能性もあるけど。庵野とのこの映画についての対談動画を観たが、「庵野さんが褒めてくれたらお客さん一杯来る」的なことを言っていて、ヒットへのこだわりは確実にあるだろう。ヒットへのこだわりはあって当たり前だと思うが、ヒットすればなんでもいいとなってくると話は別だ。

山崎貴作品は他作品を山崎貴流解釈することによって作られているみたいな分析を聞いたことがあり、この映画でも他作品の影響を読み取れ、色々他作品のタイトルをあげてきたが他にもシンゴジなどもこの映画に入っているだろう。ただし解釈の仕方が杜撰過ぎんかと思う。全体的に頭の悪さを感じるというか、日本のこういうとこダメなんだよ風刺も佐々木蔵之介に台詞で言わせているだけで薄ら寒い。
この映画はご都合主義的で、細かいことろまで言えば、シンガポールから重巡洋艦が来るまでのゴジラの足止めで佐々木蔵之介船が囮にされるのも、数分足止めしただけでは意味ないしあの船で何時間も粘れるとも思えんし、ガバガバ作戦もいいところだと思う上に、数分後にあっさり重巡洋艦来ちゃうのはマヌケなシーンだなと観てて思った。パニック状態の銀座で人がごった返しているのに神木隆之介が浜辺美波のところにさも当然のように現れるのもご都合主義だろう。どうやって浜辺美波を見つけたの?わだつみ作戦の説明会で「私は家族がいるので降ります」の人たちはこいつら何しに来たんだろという、変なことになっている。降りた人たちはそもそも説明会に来ない人たちでしょ。これは「私は家族がいるので降ります」をやりたいがためにそれありきでシーンを作っているので変なことになっている。また戦後すぐが舞台なのに、ダメージという外来語を台詞に盛り込むのも冷める。損傷を与えるでいいやん。説明会に来た人でダメージって言われても何の意味か分からない人いるんじゃないの。説明会には戦争帰りの民間人がほとんどの中、そこで使用される言葉としてダメージは出てこないと思う。

山崎貴に対しては人間の演出と脚本書くのは他人に任せてCGだけに専念するのではだめなのかなと相変わらず思う。ガチで自分の思想を込めてこれなのかヒット狙いでビジネスとしてこれなのかどちらにせよ、この映画を観ていてアイディアが浮かんだ。ゴジラのCGは悪くなかったし、次はエンタメに徹底した熊のモンスターパニック映画をやればいいんじゃね。有名な三毛別羆事件とかあって、邦画も今まで熊ものに挑んできて上手くいかなかったけど山崎貴のCGなら絶対できるし、日本を舞台にした熊モンスターパニック映画観たい人たくさんいるから絶対ヒットするしで、山崎貴に一番望まれているのは熊モンスターパニック映画だと思う。そのかわり人間の演出と脚本は他の人でCGだけに専念して欲しい。

この映画のプロデューサーである市川南のインタビューを読んだが、色々暗澹たる気持ちになるものだった。山崎貴作品は今まで全て東宝の配給で、東宝社内のプロデューサーたちも山崎監督に絶大な信頼を置いているとのこと。「これまで一貫して多くの人を楽しませるエンターテインメント映画を作り続けてきました。そしてさらにVFXを手掛ける上、脚本も書き上げる。こんなにゴジラ映画に向いた人を私は他に知りません」と市川南の山崎貴評をそのまま引用するがため息が出る。勿論商売として、たとえ思っていないとしてもポジティブなことだけを言っている可能性はある。それにしても言っていることはつまり日本で一番デカくて力のある映画会社東宝にとって山崎貴はもの凄く都合のいい営業マンってことでしょ。着実にヒットするし、VFXも脚本も一人でやるなら山崎貴一人をコントロールすりゃいいだけだし、ここはもっと台詞増やして分かりやすくしてくださいみたいな作品内容に口出しも簡単になるもんね。山崎貴もそういうのを分かった上での東宝との関係と自身の作品への取り組みでしょう。だからこそ庵野との対談という大勢の他人の前での動画撮影でもヒットに貪欲な姿勢を見せて、売れりゃ何でもいいの?と軽薄な印象を与えてしまう。もはや山崎貴の映画監督としてのアイデンティティーは売れるかどうかだけで、東宝にとっての山崎貴は売れるかどうかと扱いやすいということだけなのだがそれでいいのだろうか。
キャスティングに関して観客が感情移入しやすいように神木隆之介と浜辺美波だと言う。「戦争から帰還した元兵士であれば、もっと無骨な雰囲気の役者さんが適任でしょう。それを、あえて神木隆之介さんにお願いした。また浜辺美波さんも、荒廃した焼け野原でボロボロになりながら生きる女性とは、やや遠いイメージかもしれません。しかしお2人とも、現代の観客が身近に感じ、感情移入しやすいキャラクターの役者さんだと思い、今回出演をお願いしました」とのことだが、なんか観客をバカにしてない?観客はどうせ戦後すぐを舞台にした映画とか1本も観たことないだろうから、ミスキャストでも気づきおらんやろというように思える。この映画の神木隆之介と浜辺美波は本当に酷かったけどね。役者の問題だけではなく演出も酷いから全部が全部神木隆之介と浜辺美波のせいでもないけど。
映画観ている時もバカにされているような印象を受けたが、インタビュー読んでもバカにされているような印象を受ける。かと言って、山崎貴作品がボロカスに言われていることは知っているだろう。また市川南は『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の失敗要因分析を春日太一に話したりしているらしいので映画の内容の良し悪しを見れる人なのだろうと思う。山崎貴本人はどう思っているかは知らんが、そんな人が山崎貴の映画を商品としてではなく作品として良しと思っているとは到底考えられんのだが、ただ山崎貴の映画はヒットするんでと言われたら何も言えない。毎回ヒット生み出している山崎貴は、商売としては観客にも完全に許容されているってことだし。

この映画は観てて最初、日本によって死に追いやられた太平洋戦争の日本人戦没者がゴジラとなって、戦後すぐのため自分たちを死に追いやったものが多く残存している日本に復讐しに来るというものだと思って結構期待した。特高は公安や警察など形を変えて受け継がれたし、憲兵も戦後は普通の一般市民として生活したし、他人には死ねと言っておきながら自分はのうのうと生き残り報復を恐れて護身用で拳銃や軍刀を手放さなかった日本軍のクズ参謀もいたし、自分はのうのうと生き延びたクズ参謀は他に何人もいるし、『はだしのゲン』の鮫島伝次郎みたいな奴もいただろう。そういうのに対して怨念をぶつけに来る映画かと最初は観てて思った。この映画のゴジラは太平洋戦争の戦没者でもあるという制作意図はあると思う。ゴジラは太平洋戦争の戦没者だからこそ最後に敬礼されていたのだろう。しかし僕の理想の太平洋戦争をやってしまっているため、太平洋戦争の戦没者はあくまで設定でしかないというのに留まっている。反戦も核の象徴もそうだし、この映画は表層をなぞっているだけの設定どまりで、浅さを感じてしまう。なんで設定どまりになっているかというと、どう考えても監督の力量の無さの表れだと思う。意図は分かるが、映画が下手で表現できていない。
三樹夫

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