ambiorix

ゴジラ-1.0のambiorixのレビュー・感想・評価

ゴジラ-1.0(2023年製作の映画)
4.1
とりあえず一言言わせてくれ。浜辺美波、タフすぎ…じゃあなかった、山崎貴、やればできるじゃないの!!!
当方、ゴジラシリーズに微塵も思い入れがないうえ、これまでに見てきた作品も1954年版の初代ゴジラと庵野秀明の『シン・ゴジラ』、それにハリウッド版が4本(エメゴジ、ギャレゴジ、ゴジラKOM、vsコング)だけ、という体たらく。本レビューも必然的にこれらの作品との比較が多くなるかと思いますが、その辺はご了承願いたい。
例によって作家主義アプローチから。監督の山崎貴は、日本の映画界におけるVFX分野のトップランナーであり、同時にいろんな意味でコントロバーシャルな迷作をコンスタントに生み出し続ける問題児でもあります。ヤマト、ドラクエ、ドラえもん、クレヨンしんちゃん…などなど、落ち目気味のコンテンツを墓から掘り出してきて、独自の解釈をくわえて再構成したあげく既存ファンにも新規ファンにもまるでリーチできない世にもおぞましいシロモノを作ってしまう、そんなイメージをお持ちの方も多いでしょう。本作『ゴジラ−1.0』の製作が発表されたときに、すべてのゴジラファンがこう思ったはずです。「次は俺たちの番か」と(笑)。先々週の『ザ・クリエイター』(ちなみにこの映画の監督もゴジラの監督)評では、「オタク監督の薄っぺらさ」について痛烈な批判を加えましたが、山崎貴の場合は逆にオタクではない分だけ、アプローチする対象にさしたる思い入れがない分だけ余計にファンの感情を逆撫でしてしまう傾向があるように思います。
そんな山崎貴の作品におけるもっとも顕著な特徴とはなにか。それは「戦後・戦中の日本に対するある種異常なまでのフェティッシュ」です。ただし、この手のフェチの持ち主によくある「大日本帝国バンザイ」的な愛国主義思想に傾きそうで傾かないところが彼の映画のユニークなところでもあります。たとえば、ずばり特攻隊員を題材にした『永遠の0』では、原作にあった特攻賛美の要素をスポイルする代わりに「特攻なんかバカじゃねえの」といったシニシズムを盛り込んでみせたし、戦艦大和建造の前夜を描いた『アルキメデスの大戦』においても、巨大戦艦という過ぎたおもちゃを持って戦争へと突き進もうとする大日本帝国を突き放した視点から冷笑的に描いている。要約すれば、愛国主義的な意匠を愛でたい気持ちと国家権力のシステムに対する懐疑の気持ち、このアンビバレンツなスタンスこそが山崎貴の作品を支えていると言っても過言ではないでしょう。しかし、アンビバレンツというのは、どっち付かずだったり煮え切らなかったり、というのとイコールの関係でもある。右翼の側からすれば「もっと俺たちをホルホルさせてくれよ」となるし、左翼の側からすれば「批判するならもっとしっかり批判してくれよ」となるわけで、この曖昧さこそがこれまで山崎貴作品が熱狂的に支持されてこなかった原因のひとつなのではないか、と俺は踏んでいます(むろん、もっと根っこの部分に致命的な欠点があるわけですが、それはまた別の機会に)。
前置きが長くなりましたが、本題の『ゴジラ−1.0』です。御多分に洩れず、今回も第二次世界大戦の末期から1948年ぐらい?までの日本を舞台にしております。誰もが疑問に思うでしょう、「なぜこの時代なのか?」と。先述したように、監督の昭和フェチを満たすためなのだ、と割り切ってしまっても良いのでしょうが、本作のテーマが「日本と主人公がトラウマから立ち直ってゆく物語」だというのは見逃せないポイントです。日本人全員が共有しているわかりやすいトラウマ、と聞いて真っ先に思い浮かぶのは3.11の東日本大震災なんでしょうが、そっちはシンゴジが先にやっちゃってますからね。先のコロナは絵的に地味だし…となると、いきおい時計の針を1940年代まで戻すしかない(これがアメリカならおそらくベトナム戦争やイラク戦争あたりが題材になる)。
ゴジラシリーズの脚本を書く上でもっとも難儀するであろう部分が、「ゴジラと人間をどう交差させるか」だと思うんですよね。現にハリウッド版のゴジラはこの点において見事に失敗していました(俺が見ておらない2作目から28作目までの日本版ゴジラのうちの何作かもおそらくはそうだったのでは)。とりわけ、人間サイドが単なる傍観者でしかなかった2014年版ゴジラと、キチガイの奥さんとアル中の旦那との心底どうでもいい家族ドラマを拝まされた2019年版ゴジラはひどいの一言。窓際部署の役人が知恵を振り絞ってゴジラと対決するシンゴジなんか実はよく出来ていた方なのではないか、と思ってしまうぐらいです(俺はシンゴジを一貫して駄作だと言い続けています)。それらと比べても、今作『ゴジラ−1.0』の脚本は数段上です。
本作の主人公シキシマはアメリカの戦争映画に出てくる帰還兵のごとくPTSDに苛まれています。命じられた特攻の任務を放棄し、逃げ込んだ先で味方を見殺しにし、ようやっと日本に帰ってきたと思ったら今度は両親が家もろとも焼き尽くされていた。マイナス1どころかマイナス100ぐらいからのスタートです。シキシマは見捨てた兵士が目の前でゴジラに踏み潰される夢を毎夜見てはうなされています。本作は、敗戦後およびゴジラ蹂躙後の日本を対症療法でもって治癒するプロセスという縦糸と、主人公が過去のトラウマから立ち直ってゆくプロセスという横糸を交互に絡ませながら進行します。前者に関して言えば、これははっきり「負けた戦争のやり直し」なわけですから、ともすれば戦争賛美の方向へぶっ飛んで行ってしまってもおかしくないわけですが、そこは山崎貴。日本政府やGHQが有事の際にクソの役にも立たない、という設定(ウクライナ戦争やガザ・イスラエル戦争におけるアメリカの風見鶏っぷりを踏まえた上で見ると非常にアクチュアルです)を挟み込むことで、右傾化をかろうじて回避しています。ここでも先述したアンビバレンツが顔を覗かせていますね(さらにいえば、「戦中のメンタリティをいまだに引きずり続けている一般人」であるゴジラ討伐隊の面々もある意味では山崎貴的アンビバレンツの象徴と言えるかもしれない)。そして、本作の脚本はこれらの縦糸と横糸が有機的に噛み合っている。大切なものをことごとく喪失してもはや生きる気力を無くしてしまったシキシマがもう一度生き直すことを決意する物語が、ゴジラを撃破する物語へとしっかり繋がっている。この構成は素晴らしい。
ゴジラといえば、もちろんスペクタクル面について言及しないわけにはいきません。結論から言えば大満足でしたね。たとえば、2010年代以降に作られたハリウッド版ゴジラの作り手たちは「ゴジラを民衆を救うヒーローとして描きたい」というアプローチをとることによって、ゴジラをなんだか偽善的なシロモノへと変えてしまった。あんまりビルを壊さないし、人間も踏み潰さない。ギャレゴジにいたっては、ご丁寧に敵の怪獣が更地にしたところを通っていたしね(笑)。そこへいくと本作『ゴジラ−1.0』のゴジラは容赦なしです。逃げ惑う通行人をバンバカ踏み潰し、一度ロックオンしたターゲットがくたばるまで執拗に追い回す。とりわけVFXで再現された銀座の街をぶっ壊すシーンは特筆モノ。ばかでかい尻尾でもって人間ごとビルをなぎ倒し、ゆっくりとかつ不穏にチャージされていくプロセスののちに放たれる熱線でもって街が消滅するあのくだりには哀しみと快感とが入り混じった負のカタルシスを覚えてしまわずにはいられない。久しぶりに大画面で見る意味のある日本映画を見た気がしました。そして、このゴジラの何がいちばん恐ろしいかというと、「行動原理や目的がいっさい理解できないこと」だと思うんですよね。しつこく引用して申し訳ないのですが、ハリウッド版のゴジラは、巣作りのためだとか、敵の怪獣を倒すためだとか、人間の住処に上陸したゴジラに対してなんらかの意味づけを施していたわけです。でもやっぱりそうじゃないんだよな。われわれがもっとも怖いのは、「何を考えているのか人間の頭ではとうてい理解ができないもの」なのではないか。そこへいくてえと、本作のゴジラはアタマからケツまで何がしたいのかさっぱりわからない。わかることといえば、「オレノジャマヲスルヤツハコロス」それだけ。ゴジラの解釈なんか人それぞれなんでしょうが、個人的には原初的な生物を思わせるこのゴジラこそが最適解なのではないかと思います。
たしかに、ツッコミを入れたくなる箇所はたくさんあります。ピンチの場面でミズシマ率いる民間の漁船がタイミングよくやってきて手際よく隊列を組んでゴジラを引っ張るあの流れはさすがに強引すぎるだろうとか、シキシマと戦災孤児アキコの関係性の掘り下げがいくらなんでも足りなすぎるだろうとか、「あの人が生きてました」展開を短時間で2回も見せるのはどうなんだとか。あとは、ゴジラがくわえた電車の手すりにぶら下がったままじっと耐え忍ぶ浜辺美波のタフさとか、ゴジラの口の高さから水面に叩きつけられたにもかかわらずピンピンしている浜辺美波のタフさとか、とんでもないスピードの爆風に吹き飛ばされたにもかかわらずなんやかんやで生きてる浜辺美波のタフさとか。けれども、そういった瑕疵を補って余りあるスペクタクルシーンや脚本の構成の素晴らしさによって、本作は一級の娯楽作品たりえています。もう一度言わせてもらいます。山崎貴、アンタやればできるじゃないの!!!
ambiorix

ambiorix