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ヴェルクマイスター・ハーモニー 4Kレストア版のambiorixのレビュー・感想・評価

4.6
渋谷のイメージ・フォーラムにて鑑賞。ハンガリーの大巨匠タル・ベーラの映画は何度見てもさっぱり理解できないんだけど、146分のランタイムでわずか「37」という極限まで切り詰められたショットのことごとくがいちいちカッコよくて美しい。鑑賞中、何度ため息を漏らしたことか。

世界に満ち溢れた光の部分が少しずつ闇に呑まれていく…みたいなビジョンをタル・ベーラ監督は執拗に描く。たとえば、7時間超えの超大作『サタンタンゴ』(1994)は光が差し込む自宅の窓を板切れで塞いでいく男のショットで終わるし、監督引退作の『ニーチェの馬』(2011)は闇から始まった天地創造の神話を逆回しにしたような映画だった(光で始まって闇で終わる)。本作『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(2000)で象徴的なのが、冒頭のダンスのシークェンスだろう。酒場の客たちが太陽とその周りを回る月や地球を演じ、そこに主人公ヤーノシュが皆既日食のうんちくを挟み込む。それを引き継ぐ帰路のシーンでは、街灯の下をヤーノシュが画面の手前に向かって歩いているのだけれど、道から街灯がなくなるにつれて画面から光の占める部分が少しずつ消えていく。最後の方にいたってはヤーノシュのいるわずかな一点を除くすべてが真っ暗な闇に覆われてしまう、というとんでもないショットが現出している(この凄まじさは俺のつたない筆力ではとうてい伝えきれないので、実際に見てもらいたい)。

この「光」と「闇」の二項対立に重ね合わされるのが「秩序」と「混沌」だ。ちなみにタイトルの「ヴェルクマイスター・ハーモニー」というのは、17世紀に活躍したドイツの音楽家アンドレアス・ヴェルクマイスターによって記述された音律を指す。簡単に言っちゃえば「よく調整された音律」のことであり秩序を象徴するものでもあるのだが、この概念は劇中で音楽家のエステルによって否定されている。いわく「そんなものは全部嘘っぱちなんや」と。同時に彼は「譜面では表現できない」オルタナティブな音律を模索しているらしい。これは混沌のことなのか、あるいは秩序と混沌の弁証法的発展を経たのちに炙り出されてくるものなのか。この直後、秩序立っていた世界は暴動という名の混沌に呑み込まれる。

物語の終盤では、サーカスのプリンスに煽動された大勢の暴徒たちが夜の闇の中を無言でもってズンズンズンズン歩いてくる。そこに続くのが病院の襲撃をワンショットでとらえたこれまたものすごいシーンなのだけれど、彼らはやたらと光り輝くフルチンのおじいちゃんを目の当たりにしたところでスゴスゴと引き下がってしまう。するとこれ以降、今度は反動的な秩序が混沌を駆逐しはじめる。と、こんな具合に本作ではもっぱら、二項のせめぎ合いが生むダイナミズムを描いている。ところが、先ほど引き合いに出した暴徒の行軍シーンにおいては、紛れもなく混沌を象徴していたはずの暴徒たちがなぜだか恐ろしく統率の取れた行動をする。秩序的なわけだ。病院襲撃のくだりでも、各々に与えられた役割をあたかも働きアリのようにこなしていく。混沌の中の秩序。秩序の中の混沌。

で、結局エステルのいう「ヴェルクマイスター・ハーモニーに取って代わるもの」とは一体なんだったのか。それを体現するのが、ラストシーンでエステルが出会うひとりの人物とひとつのモノだろう。「真の調和」とは、秩序と混沌の交代劇の行き着いた果てに、秩序と混沌とがない混ぜになったところに、「穏やかな目をした犠牲者」のかたちをとって現れるのだ。
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