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落下の解剖学のambiorixのレビュー・感想・評価

落下の解剖学(2023年製作の映画)
3.6
いきなりで申し訳ないが、俺は40歳の誕生日を迎える前に自殺しようと思っている(まだだいぶ先です)。その際に家族や知人たちは「アイツはなんで死んだんだろう?」かなんか言って自殺の動機をあれこれ邪推してくるに違いない。けれども俺は遺書を残して死ぬつもりなんざないし、動機を前もって話しておくつもりもない。まして生前とくに親しくもしておらない奴輩にそれを勘繰られる筋合いなんか微塵もない。つまり俺が死ぬ理由は地球上の誰にもわからないわけだ。他者の頭の中は決して覗けない。いやさ、ことによると本人である俺にさえ覗けないのかもしれない。今回取り上げるのはそういう映画である。

ところが、これは去年宮崎駿の『君たちはどう生きるか』(2023)のレビューを書いた時にぶち当たった壁でもあるのだが、あんまり無闇に相対主義を振りかざして「他人の真意を探るべきじゃあない」かなんか言っていると、しまいには何も言えなくなってしまう(笑)。ただしそもそも批評やレビューなんてのは、作品が提示してきたものに対して評者の手前勝手な主観をぶつける文芸ジャンルなのだ、とも言えなくはないわけで、この「本来なら分かりようがないものになんとか答えを出そうとする営み」という、批評そのもののプロセスをリーガル・サスペンスのかたちで描いてみせたのが本作『落下の解剖学』(2023)だ。

本作の監督ジュスティーヌ・トリエは、2012年のフランス大統領選のゆくえと子供をめぐって争う夫婦の喧嘩とをダブらせて描いた長編デビュー作『ソルフェリーノの戦い』(2013)にはじまり、殺人未遂事件を目撃したのが被害者の犬だった…という本作と似たような設定の『ヴィクトリア』(2016)、セラピストの主人公が患者である女優に感情移入しやがて同化してしまう官能ドラマ『愛欲のセラピー』(2019)などの作品を手がけてきた。昨年行われた第76回カンヌ国際映画祭でみごと最高賞のパルムドールを受賞した本作『落下の解剖学』は彼女の長編4作目にあたる。今回『ヴィクトリア』以外の3本を立て続けに見てみたものの、個人的にはかなりニガテな部類の監督だった…。

そんなジュスティーヌ・トリエの映画には顕著な特徴がある。「人の生き方を安易にジャッジしないこと」だ。このあたりは日本の是枝裕和やなんかと似ているかもしれない。本作を撮ったトリエ監督は、泥沼の夫婦喧嘩や人間同士のいざこざを何度も何度も繰り返して描くのだが、いずれの作品も「こいつは善でこいつは悪だ」といった二元論的なオチに着地することはない。この点において、現代のわかりやすい娯楽作品に慣れきった観客からすれば「いやさ、こっちは決して安くもない木戸銭を払っているんだから、ちゃんと白黒をつけてから終わってくれ給えよ」となってしまうかもしれないし、実際に上映後にも「結局夫はなんで死んだの?」みたいな感想を漏らしている人がちらほらいた。けれども是枝裕和と同様、ジュスティーヌ・トリエは作品の中でいちおうの答えを出しつつも、たったひとつの正解や揺るぎない真実なんてなものをこれっぱかしも信じておらないように思うのだ。

(あらすじ)
雪深いフランスの田舎町にひっそりと立つ山荘でひとりの男が転落死する。男の名前はサミュエル。目撃者は視覚障害をもった彼の息子ダニエルとその飼い犬のみ。事件には不審な点が多く、事故なのか自殺なのかあるいは他殺なのか、まったく見当がつかない。唯一アリバイがなかったことから、サミュエルの妻で作家のサンドラが容疑者として逮捕され裁判にかけられる。法廷では一貫して無罪を主張していたサンドラだが、事件前日に起きた夫婦喧嘩の録音などの証拠が出るにおよんで「仲睦まじい夫婦」の虚像がガラガラと崩れていく…。

ジュスティーヌ・トリエの映画には「ええかっこしい」がよく出てくる。この言葉は関西圏以外の人たちにはいまいち分かりづらいかもしれない。だいたい「見栄っ張りな人」だとか「自分をよく見せたがる自己中心的な人」ぐらいの意味なのだが、ニュアンス的に「ええかっこしい」が一番しっくりくるので本レビューではあえてこの表現を使わせてもらおうと思う。過去の作品でいえば、子供を我が物とするために必死こいてイイ親ですよアピールを繰り広げる『ソルフェリーノの戦い』の元夫婦や、不倫相手であり映画の共演者でもある女優を孕ませておいて恬然としている『愛欲のセラピー』のヤリチン俳優イゴールあたりがその代表例だろうか(重ねて言うがトリエはこれらの登場人物の生き方もジャッジしないし、似たような振る舞いならわれわれ観客の側も日常のなかで当然のようにやっている)。そして本作においてもっとも「ええかっこしい」なのは言うまでもなくサンドラとサミュエルの夫婦だ。

自分が良き妻であり良き母でもあることを示すために、そして最終的には無罪を勝ち取るために、あらゆる自己弁護を繰り返すサンドラは典型的な「ええかっこしい」なのだが、過去に浮気をしていたことや、執筆活動を口実にしながら家事や雑事を夫に押し付けていたことなどが明るみになるにつれて、立場が少しずつ危うくなっていく。しかし彼女について多言を費やす必要はあまりないだろう(裁判の場面をフツーに見ておればわかるので)。一方、夫のサミュエルはどうか。妻の取材にやってきた学生とのやり取りを大音量の音楽でもって妨害しようとするあのファーストシークェンスを持ち出すまでもなく、かなり嫉妬深い人間だと言えそうだ。彼はどうやら街で教師をしながら作家を目指しているらしいのだけれど、子供の世話や仕事に時間をとられるせいで本を書くことができないのだという。サミュエルはことあるごとに書けないこと、自分が社会的に成功できておらないことの言い訳をする。もしかすると「作家になりたい」というのも単なる妻への当てこすりで、自分のやりたいことを生業にしている彼女への嫉妬心から生まれたものなのかもしれない。失敗の責任をことごとく他人になすり付け、自分の弱みを決して曝け出さないような生き方をしているという意味において、サミュエルもやっぱり「ええかっこしい」なのだ。

両親2人と対照的なのが息子のダニエルだ(個人的にはサンドラ役のザンドラ・ヒュラーよりもダニエル役のミロ・ダニエル・グラネールの演技のほうが印象に残った)。裁判の最終局面、劣勢に立たされた母親を救うために彼はある証言をする。いわく、父はもともと精神に変調を来たしており、希死念慮に苛まれていたのだ、と。そのことを証明するために、飼い犬のスヌープにアスピリンを飲ませて父親が自殺未遂を図った当時の状況を再現したり、自殺をほのめかす父親の会話を誦じてみたりする。もちろんこれらはダニエルの主観から見た一方的なビジョンでしかないので、真実のところは知りようがない。けれども一連の場面がわれわれの胸を打つのは、彼の行動が完全なる無私の精神に基づいているように見えるからだ。サンドラやサミュエルのような「ええかっこしい」ではなく、ただ母親を助けたい一心で真実をねじ曲げ証言を捏造するダニエル。ことによると彼はウソの証言で「父を殺すことによって」壊れた家族の絆を無理やり繋ぎ直そうとしていたのかもしれない。そしておそらくこの証言が決め手になり、サンドラは無罪を勝ち取ることになる。

このあたりからジュスティーヌ・トリエと是枝裕和は決定的に道を違えていく。これらの場面においてわれわれ観客は、サンドラがサミュエルを殺した可能性を捨てきれないモヤモヤを抱えながら、一方で無罪放免になったサンドラを見ているわけだ。事件の真実が宙吊りになっているにもかかわらず、当座の結論だけが先行してしまう居心地の悪さがそこにはある。なのでいきおい、エピローグの部分でサンドラがとるアクションに対して何かしらの意味づけを施そうとするのだが、その試みはことごとく挫折させられる。われわれは、彼女が弁護士の一味とレストランで無罪になったお祝いをし、ソファで弁護士のヴァンサンに抱きつき、帰宅して息子としばし抱き合い、ベッドに横たわる犬のそばで寝る…という、いかにも意味ありげな一連のショット群を見ることができる。ところがいくら画面を眺めたところで真相の究明につながりそうな証拠は何ひとつ出てこない。あたかも「これ以上サンドラのことを詮索するんじゃあないぞ」とでも言われているかのようだ。

俺がトリエの映画を好きになれない理由はまさしくここにある(ちなみにデビュー作の『ソルフェリーノの戦い』も本作と似たような余韻を残して終わる)。絶対主義やマニ教的な二元論を徹底して拒否しながらも最後は自然と弱者の側に肩入れしてしまう是枝裕和の温かいヒューマニズムと比べると、ジュスティーヌ・トリエはあまりにも相対主義者すぎる。ここまで来るともはや人間不信に根ざした冷酷さすら感じてしまうのだ。遡ってさいぜんの俺は、窮地に追い込まれた母親のためにウソの証言をでっち上げたダニエルにいたく感動し、あまつさえ涙まで流してしまったのだけれど、このトリエ的な世界観に沿うなら「ダニエルの本心なんか知りようがないんだから解釈しても無駄なんじゃないの?」ということになってしまう。それではあんまりやりきれないじゃあないのサ…。しかしここまで書いたところで冒頭の自殺うんぬんのくだりを読んでみると…俺自身も結構な相対主義者だったのであった…。
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