映画漬廃人伊波興一

メイド・イン・USAの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

メイド・イン・USA(1967年製作の映画)
4.5
追悼アンナ・カリーナ② この大いなる飛ばっちりにあるがままに身を委ねてみようではないか

ジャン=リュック・ゴダール「メイド・イン・USA」
 
何かと苛立っている者から受ける飛ばっちりほどめんどくさいものもありませんが、逆に飛ばっちりを受けた者を見ている事ほど面白いものもありますまい。
 
ジャン=リュック・ゴダール「メイド・イン・USA」は飛ばっちりを受けた者たちが群がる映画。
そもそも勝手にフィーチャーされているドン・シーゲル監督、ロバート・オルドリッチ監督、大スター・リチャード・ウィドマークから我が国の誉れ・溝口健二監督に至るまでが、そもそもにしてとんだ飛ばっちりの対象です。
いえいえ創り上げた架空の都市を勝手に映画舞台として拝借されたレイモンド・チャンドラーでさえ例外ではありません。
 
リシャール・ボ・・・と何故か最後まで読み上げられない名の恋人(明らかにゴダール自身)から一方的に呼び出され、到着したら既に彼は死んでいた。と、なれば当然あらゆる飛ばっちりがアンナ・カリーナに接近して来ます。

荒れたアンナは絵の具で彩られたようなストライプチェックのセーターを着て白ペンキや赤ペンキがそのままひっくり返されたようなホテルの部屋や街を散らかすように闊歩し、ジャン=ピエール・レオやラズロ・サボらが近寄ってくるたびにあの目で睨みつけ、ある一定の方向に向かって直線的に、もしくはそれとわからないほど緩やかな曲線を描いて突き進んでいきます。

飛ばっちりを受けた者が物事の上面だけを撫でるだけで気がすむ筈もなく、とかく知りたがる。
知れば知るほど飛ばっちりは多様化し、エドガール・ティフュス(エルネスト・メンツェル)、ドリス・ミゾグチ(‪小坂恭子‬)までが殺される始末。

戯れの後腐れを断ち切るように、行き着くところまで行って何が見えてくるのか?
 
(人は、まだ時が訪れていないから時の話をし、場所が消えゆくから場所の話をし、やがて死ぬから人の話をする)

そんな独白の後に放たれた最後の銃弾。

それでも過ぎ去った幻に心を寄せ、あるいはまだこの影をどこかで引いている。

走行中の車内で並んだ二人を真正面から撮る、というヒッチコックの定番のようなラストで助手席のアンナの表情に感じたものです。

全ては今の一瞬の中にのみ在るというのに。