ベルベー

しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE 超能力大決戦 〜とべとべ手巻き寿司〜のベルベーのネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます

8月はコロナかかったりバタバタで、世間の評判聞く感じ自分の目で観ないとダメなやつだなと思っていたコレを見逃していたんだが、結果として非常にタイムリーで良かったと思っている。野原一家の住む埼玉県で、自民党県議団がクソボケすぎる条例案を出したから。

この条例案、明確に本作へのアンサーになっているのが酷いと思っていて、つまり共働きで子供を留守番させてると本作の敵・非理谷充みたいになっちゃうよ、ちゃんと野原一家みたいにお母さんは子供を見守れよってことで綺麗に繋がっちゃうんですよね。

でもさ、家族の助け合いとか、個人が「頑張れ!」するしかないよって本作の着地点がそうなっちゃうのは国が頼りないからで、なんで諸悪の根源のお前らが1990年連載開始の漫画を原作とするアニメ映画の主張を鵜呑みにしてんねんクソボケがとしか思えないです。2023年に国民一律で野原一家のライフスタイルは不可能だろ。そしてそれを不可能にした諸悪の根源はお前らだろ。

本作の主張は一部でボロクソに批判されているのですが、何でかというと4人家族で持ち家でペットまでいる「勝ち組」の野原一家が弱者男性に「頑張れ」なんて言うんじゃねえって話らしい。面白いと思ったね。だって野原一家って、漫画の連載開始時には超平凡な、平均的日本人の家族の形だったはずなのに。いつからか、野原一家は上流階級になってしまった。そして非理谷に肩入れする人がとても多い。

いつからかってボカしたけど個人的には明確にここだなってポイントがあります。2001年です。この年の4月21日に公開された「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」は今更説明不要のクレしん史上いや日本アニメ史上に残る名作ですが、この時点ではみんな野原一家に感情移入して感動していたはず。在りし日の昭和ノスタルジーに後ろ髪を引かれながらも、「平凡な」核家族として生きていくことを決意するひろしとみさえに。

この映画が公開されてから5日後。第1次小泉内閣が発足します。小泉内閣、そしてその方針を受け継いだその後の自民党が(一度は政権を奪われたにせよ)国を形作った20余年。その政策は罪だけではなく功もあったと思うけど、間違いないのは、この20余年で国民の貧富の差は拡大したこと。野原一家みたいな生活ができる人も変わらずいる一方で、そんなの夢のまた夢という人も増えた。相対的に、野原一家は「勝ち組」になってしまった。

そういった2001年以降の日本の現代史を、大根仁をはじめとする本作の作り手は明確に意識していたと思いますよ。「オトナ帝国」を意識しているのはいつものことだしクレしんの呪縛なんだけど、いつも以上にさ。昭和に戻りたいイエスタディ・ワンスモアに対して令和を壊したい令和てんぷく団でしょ。20世紀博というテーマパークが舞台だった「オトナ帝国」に対し、「しん次元」の最終決戦の舞台は廃墟となった遊園地。かつて輝いていた昭和日本に縋った平成日本、その先にあったのは廃れた令和日本。大根仁は良くやったと思うよ、本当に。

ちなみに「しん次元」には実は元となる原作のストーリーが存在するのだが、令和てんぷく団のボス・ヌスットラダマス2世は今回の映画のオリジナルキャラである(勿論令和てんぷく団も)。更にちなみに、原作で非理谷充に該当する悪のエスパーは会社からリストラされた男だった。非理谷充は日々の生活にすら困窮する派遣社員という設定に変えられている。派遣法を緩和し、非正規雇用を拡大させたのは言うまでもなく小泉政権である。更に更にちなみに、実は原作ストーリーは「エスパー兄妹今世紀最初の決戦!」として一度テレビアニメ化されている。2001年に。

今回の批判ポイントとして大きいものの1つに、非理谷のやらかしが生々しいというものがある。仰る通りと思う。推しアイドルの結婚で恨みを募らせてという動機もそうだけど、幼稚園立てこもりは怖すぎる。コミカルに表現してるけど、実際にあった無敵の人の凶行を強く想起させる。宅間守の事件は2001年6月8日。あの時、世間は彼を異常者と見做した。

しかし同類の惨劇が何度もあり、令和の世になっても頻発し、それらの異常は理解不能の特異点ではなく、社会が生み出しているのではないかと人々が気づき始めた「オトナ帝国」以降の20余年。だからこそ、ファミリーアニメで非理谷というキャラクターを出したことへの批判も大きくなる。全て、作り手が敢えて為した行いへの批判だ。無自覚にやらかしている作品ではないと思う。

「しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE 超能力大決戦」は、作中でも言及されているとおり、日本の未来が閉じていく一方であること、それどころか現状でも既に壊れた国であることのスケッチである。自民党の狙い通りに壊れてしまった、野原一家の平凡など幻想と化した国の。2001年の皆さん、おめでとうございます。あなた方の思い描いた未来が今です。

このどうしようもない現状に「頑張れ」としか言えないことを無責任に感じ、憤る人がいても仕方ない。しかし私個人としては、その諦観に共感してしまったから憤れない。だって頑張るしかないじゃん。「国なんてあてにしちゃダメよ」って新橋のおじさんも言ってたじゃない。非理谷が絶望に苛まれていた新橋でさ。勝ち組の野原一家に言われるのが癪に障るって言うならそれこそ国への敗北を認めているようなもんじゃないか。

それに今の子供達は頭良いからさ、分かってると思うよ。「無責任に頑張れなんて言うな」と文句垂れる大人も結局無責任で役に立たないことに。そんなこと言うならこの結末を変えてみろよっていう。国の政治家を叩き潰すか、ゴジラみたいになった非理谷が国を叩き潰す結末なら満足か?後者はありかもしれないけど。正直「シン・ゴジラ」はそういう話だったし。

そういえば「ゴジラ」またやるね。戦後の日本を叩き潰すってさ。大根仁も山崎貴も何かと叩かれるが、世相を見て問題を提起できるクリエイターであることが、一連の流れで明らかになったと思う。結論が良くないとか、その過程の演出がダメとかあるけどさ。問題は提起している。そしてその行いこそ最も大事なのでは。結論が良いに越したことはないんだけれども。本作の結論を恣意的に解釈したようなクソ条例が提案されちゃう国だから。

ゴジラみたいになった非理谷の倒し方が2001年の大傑作「千と千尋の神隠し」のオマージュなのは明らかだし(苦団子≒とーちゃんの靴下というクレしんギャグが微笑ましい)、そういえば宮﨑駿も今年新作「君たちはどう生きるか」を出して、本作もまた令和を生きる君たちはどう生きるかという内容であった…と、ここまで来るとこじつけでしかないのだが、しかし偶然に意味を見出すのはエンタメを鑑賞して感想を考える時の醍醐味だと思うし、見出せるっていうことはそこに至るまでの筋道が用意された良い映画ってことだと思います。

そう、良い映画でしたよ「しん次元」。主張が正しいとか良いとか言うつもりもないけど、真摯に作られた良い映画。本作における、原作通りのしんちゃんやひろしのセクハラ言動は令和の世で許されるものではないけど、だからこそ本作がクレしん史の一区切りになる気がしたし。これからは、みさえだけが子育てしてる描写も変えて良いと思う。野原一家が共働きになっても良い。

でも、絶望の令和に切り替わって5年以内の2023年に発表された映画として、今回の描写は後々意味を持つはず。2001年の「オトナ帝国」が提示したメッセージが、時を経るにつれてますます意味を持ったように。この時はこういう世相だったんだなって。良くなかったよねって、出来れば、今よりはマシになった世の中で振り返ることができたらな。だから2023年なのにけしからん映画だ「しん次元」は!って憤慨するのではなく、20年後にこれよりマシなクレしん映画が作れる世の中にすることを求められているんじゃないですか、今大人の我々には。それが君たちにできるか?っていう問題提起を本作はしている。このままだと20年後にはクレしんも日本も終わってるぜ。大根仁にそんなこと言われたくないって…うん、その気持ちは分からんでもないが。

クレしん初のCG表現は凝っててクオリティ高かった。岩崎太整の音楽も。しんちゃんと非理谷の精神世界での邂逅は映像と音楽が効果的に作用しあって、なんかピクサーみたいだなと思いつつグッときたし。てかこのエモ展開からの「頑張れ!」だから本音を言うとそんな勝ち組風情がとか目くじら立てなくて良いじゃんと思ってるよ。disりたくなる気持ちも分かるけど本作の展開的には「頑張れ!」ってなるだろそりゃ。

ゲスト声優は松坂桃李が危険で哀しい非理谷にピッタリだったのと、空気階段の2人は馴染みすぎてて言われるまで空気階段って気づかんかった。特にもぐら、そういう声の本職だとばかり。

クレしん映画恒例?なぜその発想に至ったか謎な懐かしネタ今回は深田恭子の「キミノヒトミニコイシテル」。だけどこの曲がリリースされた年は…もうお分かりでしょう。だから私の感想はあながちこじつけ…ばかりでもないみたいだぜ、とこれ見よがしに強調して締めたいと思います。拙文失礼しました。
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