前半と後半でお話がとても違ったのでびっくりしました。
前半は、同一の記憶と人格を持った人体コピーの在り様という生命倫理の実験が行われました。人体コピーが倫理や宗教観に反するというなら、それは地球でも宇宙でも変わらないはずなのに、地球でだけ違法にして宇宙ではOKにしたというのは、自分がそういった目に遭う危険性がなければ技術革新として受け入れるという人間らしい欺瞞が現れていて好きでした。仲間の死にあれだけうろたえていた科学者たちが、鍵括弧付きの復活をするミッキーの死は平常のものとして受け入れていたのも、そもそもコピーされたミッキー自体は死んでいて、「復活」したミッキーは身体の構成物質も違うのに、アップロードされた同じ記憶と人格を有しているという建前ひとつで不可視化されてしまうぐらい、人の死という概念が人体コピーの登場により曖昧になったという科学の行き着きうる先を表していて、とても良かったです。こういった新規の条件を付け足して既存の生命倫理を試すタイプのSFは、予告の段階で自分が期待していた筋書きと合致していたので、『パラサイト』らしい極限の格差社会と富裕層に左右される貧困者、労働者の喘ぎという要素も相まって、とても楽しく観ていました。ミッキーが宇宙へ旅立つ前のマーシャルの会社に多数の貧困者が押しかけ螺旋階段に果てしなく列をなしていたのを仰ぎで撮っていたシーンは、それこそ『パラサイト』の階段の描写みたいで好きでした。また、トランプアンチのマーク・ラファロが、トランプっぽい裸の王様を遺憾なく演じていて、これも良かったです。けど現実のトランプは選挙で落選して宇宙に追いやられずに、世界の政治のど真ん中で暴れ回ってるんだよな…
そんな風に楽しんでいたら、いつの間にか、冒険SFになっていました。後半もそれなりに楽しくは観たのですが、前半で数々提示された人体コピーに関する生命倫理上の問題が、後半のマーシャル夫妻への一転攻勢とミッキー18の勇ましい自己犠牲という爽快な活劇展開でなあなあにされたような気がしました。しかも、その活劇展開も、別にミッキーが2人いなくても成り立つものだったのも気になりました。急に冒険SFになったけど、もしかしたらミッキーが2人いることを活かした画期的な解決策が出てくるのかな?とか思っていたのですが、そんなこともなく…人体コピーも結局春の訪れとともに放棄されて、Mickeyは17から19へなりそうだったのが確固たるMickey Burnsという個人を取り戻して終了。本当にコッテコテの大作ハリウッド映画的な展開で、そういうのも嫌いではありませんが、本作には求めてなかったというのが大きかったです。
テイストが違うとはいえ、前半後半とも面白かったので映画代無駄にしたとはまったく思わないのですが、お話の筋が予告段階で期待していたものから反れていったので、そこは残念でした。