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終わらない週末のJFQのネタバレレビュー・内容・結末

終わらない週末(2023年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

迫る巨大タンカー、迫る墜落ジェット機、迫る無人の自動運転車、大量のビラをまき散らしながら迫るドローン、迫る大群のシカたち、通じない言葉で叫びながら迫ってくる女…

「意思の通じないもの」が迫って来ることの恐怖が、独自のビジョンで描かれる。

映像内に漂う圧倒的な「不穏さ」に引き込まれる。

この「不穏さ」によって映画が描き出そうとしているのは何か?「アメリカンパラノイア」とでも言うべきものではないか。
より細かく言えば、「共和党系パラノイア」と比して語るべき「民主党系パラノイア」とでも言いたくなる何かではないか。

つまり、共和党≒トランプ主義者≒Qアノンのそれを「ディープステイト・パラノイア」と名付けるとすれば、映画で描かれているのは民主党≒知的リベラルのそれだろう、と(作品の制作者はオバマ元大統領陣営だ)。言うなれば「アンチステイト・パラノイア」とでも名付けるべきか。

まず、共和党系「ディープステイト・パラノイア」の「患者」達は、大よそこんな事をいう。
彼ら曰く、アメリカには「闇の国家」があるのだと。そこの住人は主に知的グローバルエリートであると。彼らは胎児の人肉を食らう怪物たちであり(トカゲの一種だと言う説もある笑)、普通のアメリカ国民の命などなんとも思っていないのだと。
今、アメリカはそうした「ディープステイト」の住人たちに乗っ取られており、それを撥ねのけられるのは「帝王トランプ」だけなのだと。
つまり彼らは、アメリカの”内側にある”もう1つの国家が「右でも左でもない普通のアメリカ人」たちの生き血をすすりに来るという「強迫観念」に囚われる。

対して、「アンチステイト・パラノイア」の「患者」たちは、アメリカが”外側にいる何者か”から生き血をすすられようとしているという「強迫観念」に囚われる(知的な分だけ外に目を配る余裕がある、ともいえる)。

その「外側にいる何者か」は、物流のネットワーク(タンカー)や、移動のネットワーク(ジェット機、コネクテッドカー)や、インターネットなど、自分たち(米国)が構築してきたグローバルなネットワークに亀裂を入れてくるのだと。いろんなものがつながることで、遠くにあっても得ることができた利益の数々を全て停止に追い込んでくるのだと。

しかし、誰が何のために?その「意思」が分からない(通じない)から恐怖なのだと。映画はそう描いているかにみえる。

けれど、観るものの多くはぼんやりとではあれ、その「恐怖の発生源」を知っている。むしろ、知っているからこそ「恐怖」なのだと思う。

アメリカ国民の多くは、戦後、米国が「外」=ベトナムで、イラクで、アフガニスタンで、ニカラグアで、シリアで…行ってきたことの「怨念」が、「恐怖の発生源」なのだと(うすうすにせよ)気づいている。つまり「アンチステイト(敵対国)の怨念」が「恐怖の発生源」だと無意識のうちに気づいている。

彼らがやってきたことは、ターゲットにした国の「反乱分子」を裏から支援しながら、自国の意思をターゲット国に浸透させていくことだった。

ベトナムでは南ベトナムを支援しながら北ベトナムを空爆し、ニカラグアでは「反政府軍」を支援しながら内戦を煽り、シリアでも「反政府軍」を支援し「独裁アサド政権」の転覆を狙った(その結果、イスラム国が生まれた、、)

彼らは、言ってしまえば、ウクライナ内の東部二州に介入して自国の意思をターゲット国内に浸透させようとするロシアとたいして変わらないことをやってきた。

そのうえ、それで事態が好転するのならまだしも、多くの国では「よけいにひどい状況」が訪れた。当然、それらの国では「怨念」が貯まっていく。

だからこそ。それら蓄積された「怨念」が「恐怖の発生源」だとうすうす気づいているからこそ、「外側から悪意が迫ってくる」という強迫神経症に囚われる。実際、映画でも「アメリカは敵を多く作ってきたからな」とのセリフが登場人物の口から吐き出されている。

そう考えるなら「アンチステイト・パラノイア」は、戦後一貫してあったものだと言えそうだ。しかし、なぜ今になって、こうした作品が作られるのか?

それは「民主主義&資本主義」という「繁栄の鉄板方程式」が崩れてきたからだと思う。

なぜ、アメリカは戦後長らく、今のロシアのようなことをしてきたのに「大目に見てもらえた」のか?それは「民主主義&資本主義という繁栄の鉄板方程式を広めるため」という大義がもっともらしくみえたからだ。

たしかに「社会主義独裁政権」と「反乱軍」を比べれば、後者に可能性がある気がする。「反乱軍」を支援したのち、彼らに「民主主義と資本主義」を伝授すれば世界は繁栄するはず、、そんな気がする(した)。
だからこそ、それは「良いこと」に思えたし、実際、国際法的には認められていない他国の反乱軍への支援を「正義」だとして描いた「ランボー」な怒りのアフガン映画が、世界でヒットもした。

けれど、2001年の「ツインタワー襲撃」を境に、その認識は「反転」したのだと思う。これ以降、アメリカは、自国の外交姿勢を問われ続けることとなる。「民主主義&資本主義という繁栄の方程式を広げているからいいのだというが、本当にそうなのか?」と。

実際、2001年からのアフガン戦争も、2003年からのイラク戦争も、2014年からのシリア紛争も、彼らの「介入」は、ことごとく「失敗」に終わり続けている。そして、その「反転」は、今、アメリカの外交姿勢が問われている「イスラエル・ガザ戦争」でも続いている。

けれど。映画の「不穏さ」はアメリカ国民ならずとも、「国籍を超えて」、観るものの心を捉えてくる。それは、先に書いたように、「民主主義&資本主義」という「繁栄の鉄板方程式」が崩れてきたことに由来するのだと思う。

だって我々も、また「民主主義&資本主義」という「繁栄の鉄板方程式」の元に生きているのだから。そして、その「方程式」が「鉄板」でもないことに、うすうす気づきつつあるのだから。

だとしたら、その後、やってくる(迫ってくる)のは何なのか?それが分からないから映画は圧倒的に「不穏」なのだ。

おそらく映画の1つの参照元である「北北西に進路を取れ(1959)」の時代であれば「スパイの国(≒共産国ソ連)」を逃れ、「自由の国」へと続く列車に乗り込めばよかった。そのレールは「繁栄」へと続いていたのだから。

けれど、今、我々は、何の列車に乗ればよいのか?そして、どこにたどり着けばいいのか?全く分からない。だから、地下室にこもり、かつてあった「笑いのたえない時代」に思いをはせながら週末=終末を過ごすしかない…。そして週末が終わる前に世界が終わるのだ、と。
「なんたらガー」や「反アメリカパヨク」ではなく「映画」が、そう言っている。
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