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ボーはおそれているのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

ボーはおそれている(2023年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

アリ・アスター作品の「ワケわからんぶり」に拍車がかかったな(笑)と思う反面、監督が描きたい「家族哲学」が完成に近づいたのかな、とも思えた。

アリ・アスター作品を貫く「哲学」とは、一言で言えばこういうことだと思う。

「家族とは巨大な負債(借り)である」。なぜそう思うか?
順に書く。

まず、監督にとって家族は「よそよそしいもの」に見えている(のだと思う)。なんというか、家族は、自然と愛情が沸き上がるから愛を示し合っているのではなく、そうすることが義務だからそういう「儀式」をしているのだと。そういう「お芝居」をしているにすぎないのだと。そんな感覚があるのだと思う。

そのため映画では「家族」が大きなテーマとなる。そして「儀式」や「お芝居」のモチーフが多用される。

例えば「ヘレディタリー」では「家庭」が「ミニチュア模型」として描き出される。主人公の女性はミニチュア模型の造形作家で、そこで作られた「家族の光景」が現実でも展開される手法が取られる。

つまりは、家族にはすでに「台本(模型)」があるのだと。そして母・父・子はそれを「お芝居するように」なぞっているだけなのだと。

そのため、本作「ボー」にも表れる「日常が舞台のようにみえるルーズショット」が印象的に駆使される。

また「ミッドサマー」では、北欧の白夜の村で行われる美しくもグロテスクな「儀式」が描かれる。全員「家族」のような村人たちが、独自の死生観(宗教観)のもと「儀式」を行う様子が描き出される。「家族は儀式」のモチーフがここでも貫かれる。

さらに、その流れで言うと「アリ・アスターもの」には「首のない死体」が頻繁に登場するが、これも「家族とはお芝居だ」に関わっているのだと思う。つまり、家族とは舞台であると。そこでは、皆自分の意志で動いているというより「儀式」をするために動かされている、と。いわば「人形」のようだと。その「人形性」を際立たせるモチーフが「首のない死体」なのだと思う。
実際、人形で撮影しているのもあるが、首のない死体は「人形み」が増す。人の意思が顔(頭脳)に宿るからか、それがない「首なし死体」には人形感が漂う。そういうことを示してるんじゃないかと思う。

けれども。今「儀式」と書いたが、それは何の「儀式」なのか?それを通じて何を成し遂げようとしているのか?

「負債(借り)を返すため」。作品はそう言っていると思う。どういうことか?

結論から先回りしつつ書けば、アリ・アスター作品は「母から”命”と”ケア”を与えられたこと=巨大な負債」だと描こうとしている。

確かに母から命を与えられなければ、そもそも自分は存在しないし、母のケアなしには育つこともできない(ここでの”母”とは「生みの母」に限らない)。そう考えるなら「人はみな母から借りを作っている」とみることができる。だからこそ人は、自然と沸き上がる感情から母への愛を示すのではなく「返済義務」ゆえに愛を示し(続けて)いるのだと。

しかし、これを「借り」だと捉えると「巨大すぎる負債」になる。悪徳金融の「トイチ」どころではない(笑)いや、そもそも返せるのか…?という気持ちにもなる。

だから登場人物たちは「恐れる」。ボーも、ボーじゃない人もおそれる。おそれている。その「恐れ」が妄想を呼び込む。
「命をもらったならば、(別の)命で返すしかない…」という妄想だ。

前述「ヘレディタリー」では主人公(母)の娘が「首なし死体」となることで「命の返済」が行われる。そしてラストには息子が新興宗教の「生贄」に差し出される。

それは、主人公が「母(グランドマザー)」と良い関係を築けなかったこと(借りを返せなかったこと)の「代償」のように描かれる。いわば、娘と息子の命が「借金の差し押さえ」のように描かれる。

そして「ミッドサマー」も、大きく言えば「その構図」に従う。映画は主人公の妹が父母を巻き込み一家心中したことを描く。それは、母から「命とケア」をもらった「借り」を「一家心中」という「生贄」で返したことだと捉えられる。そう考えるなら、1人生き残った主人公の姉は「返済」ができていないことになる。

だからこそ、彼女は、北欧の村で大事な彼氏を「生贄」に差し出し「返済」を果たす。その村では、死は「環」であり、「終わりは始まり」であり、「喜び」でもある。だからこそ主人公は微笑む。そして「(返済を終えた)笑み」とともに映画は幕を下ろす。

けれど、これまでの映画には「最初に与える”母”」の姿がはっきりとは描かれてこなかった。だからこそ本作「ボー」では”そこから”映画がスタートすることとなる。

映画は母の出産により、主人公のボーがこの世に生を受ける場面からはじまる。

ここでは、これまでの作品ではぼんやりしていた「命の吹き込み=巨大な負債」と「ケア」を象徴する「羊水(水)」のモチーフがはっきりと導入される。

その後、ストーリーは大きく3部構成で進んでいく。

まず、前段は「”羊水=母のケア”なき世界」が描かれる。
話のアウトライン自体は、主人公のボーが「父の葬儀に出て欲しい」と母から連絡を受け、実家に向かおうとするも、想定外が頻発し、なかなか辿りつけないという単純なものだ。

とはいえ、目の前に展開する「ワケのわからない映像世界」に度肝を抜かれっぱなしとなる。

まず、ボーが住む街の殺伐ぶりが凄い。。全裸の男が路上で躍り、全身タトゥーの男が徘徊する。しかも、少し隙をみせれば、そいつらはボーの家に上がり込みパーティーを始めてしまう。

個人的には「こんな社会もうどうでもいいわ感」が強烈に漂うこの前段が、今の世界の状況を物語っているようで、一番好きではある。

さておき。ここは母のいない「ケア亡き世界」だ。だからトラブルが頻発する。実家に向かうため用意していたキャリーケースも、自宅の鍵も、少し目を離した隙に盗まれてしまう。

そのうえ、カウンセラーから処方された薬を飲もうとしても、水道からは水が出ず、ペットボトルもほぼ空…。商店に駆け込み水を買おうとしても、クレジットカードは反応しないし、財布の金は絶妙に足りない…。

その間、風呂の水(羊水)はあふれ出し、浸ったと思えば、真上から人が覗いているのだ(なんでやねん!と笑ってしまった)。

そして、驚いて家から逃げ出せば車と衝突。

運転していた家族の元で暮らすこととなる。だが、その後も、「葬儀場まで送ってやるよ」と言ってくれた家族に、トラブルが頻発。

そのうえ家族の娘からはマリファナを吸わされそうになるわ、娘が突然ペンキを飲み出すわで(なんでやねん!と笑ってしまった)やりたい放題が続く…

とにかく、「なんやねん!これ(笑)」に満ちた映像が展開する。
けれど、「このブロックは”母のいないケア亡き世界”を描いている」と分かっておけば、それでいいのだと思う。

そんな「ケアのない街」を飛び出した先で展開するのが第2部となる。
ボーは運転手家族の元を逃げ出し、森の中で気絶する。そして、目が覚めた後、演劇グループの一団に出くわす。森の中には彼らの芝居の舞台があり、そこでは「家族の物語」が展開している。アニメスタジオ・ドワーフとのコラボによるこの「家族劇」は、正直自分にはよう分からない、、(笑)

ただ「ボーよ!お前は父になることはできない!」「お前は”負債を返す側”であって与える側には立てないのだ!」と。そういう事を描いているんだろうとは思う。

そして、後段になり、ようやく母の元に到着。
ここでも、少年時代に好きになった女性と再会し、ベッドで愛を交わすも、女性が人形化?してしまうなどの超展開が…。

さらには「アリ・アスターもの」ではおなじみの「屋根裏部屋」には巨大な男根のおばけが隠されている、、、

そのうえ、今まで展開してきたあれこれは全て母に監視されており、全ての出来事も、登場人物も、母が仕込んだものだったという「超超展開」も明らかに。つまりは、やりたい放題だ(笑)

けれど、ここまで書いてきた「家族哲学」を参照するなら、こういうことだろう。

人は「巨大な負債の返済」に囚われている間は、どう逃げても逃げることはできないのだと。だから、負債の返済なくして、快楽を得ることなどできないし、SEXは不発となり、「男根おばけ」は物置に仕舞われるのだ、と。そんなことが言いたいんじゃないかと思う。

そして、映画のラスト、「負債の返済」から逃げた罰としてボーは巨大ホールのような場所で「裁判」を受け「敗訴」。水中(羊水)に船ごとしずめられてしまう。こうして「命の返済」を「命」で果たすのだった…。

たしかに、展開する映像世界はハチャメチャだ。しかし、これまでの作品と照らし合わせながら考えれば、描きたかったことがより「くっきり」してきたともいえる。

冒頭「わけわからん反面、監督の家族哲学が完成に近づいている」と書いたのは、そういうことだ。そこが自分には興味深かった。

とはいえ「家族=返済できない負債」と捉えるなら一体どこに脱出口があるのか?「ずっと恐れて生きていく」しかないのか?その辺、どうでしょう…?という気持ちになることも確かではある(だからこそ前2作では「宗教による救済」のモチーフに頼ろうとしたのかもしれないが)。

さておき。さらに興味深かったこともあって。それは、作品が「家族の話」を超え出る可能性をはらんでいたことで。自分もうまく言えないが、映画は、現代の「新しい権力の在り方」を描いているとも読めた。

なんというか、現代はかつてのように偉大な権威や、強い規範から「禁止」が下される社会ではない。ガンコ親父や、偉い人たちが「●●はだめ!」「●●をせよ!」みたいに命じて回っていく社会ではない(権威=男根おばけは屋根裏部屋に隠される)。

むしろ、表面上は、いろんなことが「自由」になり、いろんなテクノロジーが人々を「ケア」してくれるようにみえる。アプリを連携させれば、自分の健康状態も逐一わかるし、自分の「おすすめ商品」も立ちどころにわかる。

けれど、その一方で、自分にまつわるデータは(与えてもらったものの返済として?)逐一吸い上げられる。そして、自分の行動が監視され、先回りされてしまう。そんな感覚もある。「なんで俺が気づく前に、俺の好きがわかんねん!」みたいな(笑)

この自由にさせてもらえるようでいて、ケアされているようでいて、監視されているような、コントロールされているような「気持ち悪い」感覚。これが「母」の比喩とともに描き出されているのかな、とも思う。なので、この線で次にどんな作品が生み出されるのか?そこに興味が湧いている。
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