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Trenque Lauquen parte II(原題)のCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

Trenque Lauquen parte II(原題)(2022年製作の映画)
3.2
【「記録」を辿る者と「記憶」を辿る者たち】
動画版▼
https://www.youtube.com/watch?v=73ZwVmyfLes

アルゼンチン映画が密かに盛り上がりをみせている。14時間のキメラ映画『ラ・フロール 花』のマリアノ・ジナス監督が脚本を手がけた『アルゼンチン1985 歴史を変えた裁判』がアカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされた。2023年の東京国際映画祭に出品された『犯罪者たち』がカイエ・デュ・シネマで注目されようとしている。今回観た4時間の超大作『TRENQUE LAUQUEN』はカイエ・デュ・シネマベスト1に選出され、読者票でも2023年の6位に輝いたアルゼンチン映画だ。製作はマリアノ・ジナスが創設したEl Pampero Cineである。実際に観てみると、アルゼンチン映画という文脈よりもカイエ・デュ・シネマが『瞳をとじて』『落下の解剖学』と共に本作を推したこと、テレビシリーズと映画の関係性の方面から興味深い作品であった。

本作は田舎町「トレンケ・ラウケン」を中心に、失踪した植物学者ラウラとそれを追う二人の男の物語を紡いでいく。遅々として真相に辿り着けない様子から、「ツイン・ピークス」を想起させ、謎解きというよりかは真実を追っていくプロセスに着目した方が良いことに気付かされる。ここでカイエ・デュ・シネマ2023年のベストに選ばれた『瞳をとじて』との類似性が浮かび上がっていく。失踪を軸に記録と記憶を結びつけていくのだ。実際に、男たちはトレンケ・ラウケンに住む人たちの記憶を辿っていく。そして男自身の記憶と結びつけ整合性を取っていく。一方でラウラの場合、記録を辿りながらトレンケ・ラウケンへ導かれていく。図書館で本を借りる。本を解体し、イタリアの地図と文書を取得し行動へと移っていく。また、彼女は植物を辿っていくこととなる。この記憶を辿る男たちと記録を辿るラウラが、時空間の結合によって編み込まれていく過程は興味深いものがある。

このような対比を見出した時に、車と馬との関係性も気になってくるのだが、これは『犯罪者たち』の方が数枚上手であった。こちらは、社会システムに縛られる者と自由を得た者との対比として明確に馬が起用されており腑に落ちるものがあった。一方で、こちらは物質としての車と馬の差が記憶と記録、ないし別のところで明示されているように読み取ることができなかった。

さて、もう一つ興味深いのはテレビシリーズ化する映画像を語る上で本作は良き例となり得ることである。MCU以降、映画はテレビシリーズに歩み寄ろうとしている気がする。90分ガッと集中して観るというよりかは、ある種の間延びした時間の中に身を投じ没入する。そして、連続するものとして作品が存在するといったイメージである。実際に『TRENQUE LAUQUEN』は、二部構成に分かれており、その中も細分化されている。それぞれの挿話が伏線のように絡み合っていく過程は、MCUにおける別の作品がコミットしていく感覚にも近いであろう。また、映画的キマッたショットが少ないのもどこかテレビシリーズに近いところがある気がする(ただし、テレビシリーズはほとんど観ていないので憶測にすぎない)。もちろん、良かった画もあり、フェードイン/フェードアウトによって上下スプリットスクリーンのようなものを使ったり、冷蔵庫の上にラウラの寝ている姿を重ねるなど前後のショットのオブジェクトを的確に重ね合わせる点は評価に値する。

結果として、好みかと訊かれたら可でも不可でもないといった位置付けなのだが、語ることが多い作品であった。とりあえず、カイエ・デュ・シネマのEl Pampero Cine特集号が読みたいところである。
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