ひとりの女性が失踪したらしい。だが、失踪に至る経緯やら背景やらについて、ふたりの男は知っている様子もなく、ただひたすらに事態への困惑を隠しきれぬまま女の所在を探し求めようとする。
とりあえずはこのように始まった『トレンケ・ラウケン』と名付けられた作品は、4時間超のランタイムを全12章に分割しているが、とりわけ前半部において、滑らかさとは異なるある種「ぎくしゃくした」感じを受ける。やや性急に思われもする編集が紛れ込んでいたり、男女の会話の最中に給仕係が飲み物や食べ物を持ってくることで瞬間的とはいえ中断を余儀なくされたり、章立てたことで場面が寸断されたりする。だが、そのことは『トレンケ・ラウケン』が技術的あるいは形式的に拙劣であることを意味してはいない。やや「ぎくしゃくした」感じは、滑らかで穏当な理解を拒み、寸断され時制が混乱しかねぬ画面の連なりは、魅惑的な迷宮にわれわれを誘うだろう。ひとりの女性の失踪で幕開けたはずの物語は、いつのまにか横滑りし、その失踪した女性が図書館で発見した古い往復書簡の書き手の正体への興味に移行しているし、やがてSF的世界観までもが召喚されることとなる。
ここですぐさまいい添えておきたいのは、ごく日常的、牧歌的といってよい風景や画面が驚くべき時空の迷宮を立ち上げるとき、そこにはあくまで簡潔で飾り気ないショットの連鎖のみがあるのであって、大袈裟な視覚効果といったものを必要としてはいない点だ。慎ましくも大胆かつ繊細な編集や光線への豊かな感性に支えられた画面は、ある説得力をもって複雑で独自の時=空間を生成することができる。無論ここには観客の知性への信頼が求められるが、この点のみにおいてさえ、ラウラ・シタレラをはじめとするエル・パンペロ・シネという小集団が、現在の世界映画状況の上で信頼に足る一群であることは間違いないと思う。