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パスト ライブス/再会のPONのレビュー・感想・評価

パスト ライブス/再会(2023年製作の映画)
4.5
「今の立場があるから、関係性だから、言葉にしない、したくない、してはいけない」感情。でも、その感情はなんらかにじみ出ていて、相手も感じ取っている。確信はなくても、きっと彼/彼女はこう感じているのだろう、こう考えているのだろうと。

だからといって、熱情に任せてすべてを投げ打つなんてことはしないし、理性的で、でも理性とせめぎ合う葛藤もきちんと滲ませる。そこにある抑えきれない感情と抑制する行動。「恋」とは、「人と一緒に生きていくこと」とは。観た人がそれぞれの価値観に考えを巡らし、あったかもしれない「もしも」に思いを馳せる。

この映画は、「縁」の話であると同時に、「去るもの」と「去られるもの」の物語でもある。

いつも一緒に帰って、教室でも隣で過ごして、言葉にはしないけど、確かに通じ合っていた。子どもながらに、2人が同程度の愛情を抱いていた奇跡的な関係。しかし、ナヨンはノラと名前を変え、泣き虫だったけど、野心的な彼女はおそらく移住先で苦しみながらも、自分の場所を見つけていく。取り残された側のヘソンの気持ちを想像するととても居た堪れない。これからも2人で一緒にいろんな時間を過ごすことを思い描いていたろうに、あまりに突然、そしてあっさりと彼女は去ってしまう。慰めていた泣き虫な彼女が去ってしまう空虚感。支える側だった自分が泣き虫な彼女に取り残されるという、これまでとのある種の逆転状態。残される側は、いつだって後ろ髪を引かれるものだ。

ソウルでナヨンが泣き虫だったのは、慰めてくれる相手(ヘソン)がいたから。ノラになってから、彼女は泣き虫じゃなくなった。泣いても、「誰も気にしてくれない」と気づいたから。久しぶり(24年振り)に涙を引き起こしたのは、ヘソンがそばにいたこと、そして今度は彼女が「去られる側」になったことであり、また涙を流すことができたのは、それを受け止めてくれるアーサーがいたからだろう。「ヘソンの中に置いてきたはずの12歳の少女」が、最後アーサーの前で立ち現れた。

最後、去る側になったヘソンは、ようやく諦めがついたのか、来世に願いを託したのか、清々しさもにじませた表情をしていた。背後にある朝陽が、彼の新しいはじまりを示唆していた。

2人が恋愛関係に発展しなかったのには、「縁」以外の理由もあるように感じた。ヘソンとノラはある種アンバランスな状態で、再会した。ソウルからわざわざニューヨークまで訪ねてきた側であり、恋人とも上手くいっていないヘソン。一方、グリーカードを得て、結婚もして、誇れる仕事もあり、ひとまずは今の居場所に身を固める決心をしたノラ。美しい思い出にすがって失うものがないヘソンと、失うものを抱えたノラ。ノラに恋人がおらず、2人が同じような状態だったら、2人は結ばれたことだろう。2人の価値観や生活には違いがあったので、それはいつまでも続いたかはわからないけれど。

Uberが来るまでの2分間という絶妙な時間。家の前ではなく、少し距離のある場所に呼び寄せたのは、Uberを呼んだヘソン(もしくはノラ)の意図があったのかもしれない。結局、2人は行動は起こさなかった(Uberに遮られたとも見れる)。ヘソンが行動を起こさなかったのは、韓国育ちで直情的な行動をしないという文化的側面と、アーサーへの敬意があったからだろう。言葉は通じなくても2人はお互いの存在を認め、互いの間にも「イニョンがあるのかも」という言葉を交わしたことも影響したのだろう。

反対にノラを逡巡させたのは、ヘソンに惹かれていたと同時に、ある種の違和感を感じていたこともあるのではないかと推察する。

ニューヨークにいる間のヘソンはどこか頼りなく、ニューヨークという場所に浮き足だっている面もありつつ、本質的には、ナヨンに去られたことをずっと引きずっている、「12歳のままの少年」が彼の中にいまだ存在していた。ノラは「12歳の少女はヘソンの中に置いてきた」と言い、最後までヘソンの前では「12歳の少女」を隠したままだった。それはヘソンのことを思ってのことでもあるし、アーサーのことを思ってのことでもある。

実は、それ以上に、ノラは韓国的価値観を内在したヘソンと、自分がずっと一緒に、たとえばニューヨークで暮らすことをイメージできなかったのではないだろうか。背筋を丸めて自信無さげで、実家暮らしで誇りを持てる仕事に就けていなくて、自由の女神の前でダブルピースしてしまう、無邪気だけど、ニューヨークという街に馴染まない存在。24年という時間が、別の場所で過ごした経験が、埋めがたい違いを2人の間に生んでしまった。「大人」になった彼女は、ロマンチックな展開を望む以上に、2人の間にある違いに自覚的だったからこそ、アーサーという大切な人との関係を壊さないことを選んだ、ということでもあるのかもしれない。

そして、そんな逡巡から来た涙を理解し、受け止めた、アーサー。彼の立場に立つと苛立つこともあったはずだが、あんな振る舞いができる彼との関係の継続を望んだノラの選択はきっと間違っていないことだろう。


最後は2人の能動的な決断というより、Uberという第三者に強制的に終わりを告げられるというのも、「縁」を描いた映画らしい幕引きで見事だった。

恋愛関係や婚姻関係ではなくても、愛するという言葉や行為がなくても、「他人と愛し合う」ことは成立する。ありがちな展開に逃げず、そんな美しい真理を描いた、勇気ある素晴らしい映画。「言葉にしないと、行動で示さないと、愛していることにはならない」アメリカという国で製作された、このある種とても東洋的な映画が、現地でも大ヒットを記録したというのが時代の変化を感じる。

なによりとてもとても、美しい映画だった。カメラワーク、画面構成、画のトーンも、音楽、テンポも、編集も、画面に映り、そこに漂うものすべてに尊さと美しさがあった。ずっと見ていたい、そんな映画だった。

PS. タイトルの「Past」と「Lives」の間にやけに距離が空いていたのが気になった。Pastがヘソン、Livesがアーサーで、その間にノラがいるということだったのかもしれない。
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