耶馬英彦

ビヨンド・ユートピア 脱北の耶馬英彦のレビュー・感想・評価

4.0
 本作品を観ると、思想教育の恐ろしさがよく分かる。アメリカ、日本、韓国という外敵を設定して、北朝鮮の為政者は、それらの敵から国を守る勇敢な英雄だという、ほとんどファンタジーみたいな「神話」を浸透させることで、国民を洗脳している訳だ。
 金正恩はどんな人かと聞かれた北朝鮮の子供は「金正恩将軍様は、世界で一番立派な人」と答える。おばあちゃんは「将軍様は一生懸命に国を守ってくださっている。生活がよくならないのは、国民の努力が足りないからだとしか考えられない」と話す。

 為政者が「神話」によって崇め奉られるためには、情報統制は欠かせない。国民に反体制的な情報、為政者の「神話」に反する情報は一切与えないのだ。比較の対象がなければ、現体制に疑問を感じることもない。
 戦前の日本の愛国教育とほぼ同じだ。当時は大正デモクラシーの影響がまだ残っていて、戦争に反対する知識人が多くいたが、戦争に突き進みたい為政者は、特別高等警察(いわゆる特高)を組織して、反戦運動を徹底的に弾圧した。同時に治安維持法によって社会主義者を取り締まった。小林多喜二を拷問で殺したのが特高である。人間は仕事であれば、どこまでも残酷になれるものだ。
 現代の日本でも、アベシンゾーのように、愛国教育を復活させて国民を為政者の言うことを聞く羊の集団に育てようという動きがある。インターネットが普及して、多様な価値観が溢れる世の中だが、情報統制をして、反体制的な人間を弾圧すれば、戦前と同じように、20年も経ったら国民は民主主義を忘れて、国家主義に傾倒するかもしれない。自分で考えることをしなければ、必ずそうなる。

 脱北者たちは、故郷に帰りたい、親戚と会いたいと言い、祖国という言葉を口にする。オキシトシンの働きだろうか。僅かな年月でも、同じ場所で過ごしたら、その場所に愛着が湧くし、名前を知っている人間にも愛着を抱くことがある。脱北者たちの辿ってきた道は確かに凄惨だが、金正恩を支持してきた精神性は、国に対する愛着である。
 世界史を習った人はだれでも知っているが、国家というのは流動的だ。国境も民族も、言語も流動的だと言っていい。人間は元々根無し草だが、国家だって、長期のスパンで見れば、根無し草だ。確たる拠り所ではない。祖国など本当は存在しないし、愛着はオキシトシンが作り出す幻想に過ぎない。

 誰かが亡くなったら悲しいと感じる人は多いが、日本では毎日4000人が死んでいる。知っている人の死だけ悲しむのは、知らない人の死を蔑ろにする行為ではないのか。むしろ理不尽に死んだ人たちに思いを馳せて、そんな死がなくなるように願うことだ。故郷も祖国も、国家さえも幻想であることが分かれば、精神的な自由が獲得できるし、独裁者たちの拠り所はなくなる。
 しかし、ガンバレニッポンに類する精神が蔓延しているのが世界だ。戦争はなくならないし、アベシンゾーや金正恩みたいな連中が、これからものさばり続けるだろう。彼らを支えているのは、我々の不自由な精神なのだ。
耶馬英彦

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