シゲーニョ

チャレンジャーズのシゲーニョのレビュー・感想・評価

チャレンジャーズ(2023年製作の映画)
3.5
“男2人と女1人”の友情・愛・夢・裏切りを題材にした映画は、これまでにもかなりの数、作られてきた気がする。

売れない芸術家の2人が1人の女性を同時に愛してしまい、友情の危機を迎えるエルンスト・ルビッチの「生活の設計(33年)」を筆頭に、フランソワ・トリュフォーの「突然炎のごとく(61年)」、ミシェル・ファイファーが魅力的な「恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ(89年)」、エドワード・ノートン初監督作「僕たちのアナ・バナナ(00年)」などといった、“1人の女性の出現によって、男2人の関係がギクシャクする”作品…。

その一方、第一次大戦のイケメンパイロット2人が美女そっちのけで盛り上がる、第1回アカデミー賞作品賞の「つばさ(27年)」とか、ビリー・ワイルダーの「お熱いのがお好き(59年)」、ロベルト・アンリコの「冒険者たち(67年)」、ジョージ・ロイ・ヒルの西部劇「明日に向って撃て!(69年)」といった、“1人の女性を取り合うでもなく、女性のことも好きなんだけど…オトコ同士はもっと好き!!”という関係を描いた作品もある…。

本作「チャレンジャーズ(24年)」のメインとなる舞台は、ランキング下位選手の登竜門と位置付けられる大会、2019年N.Y州ニューロシェルで開催された「フィルズ・タイヤタウン・チャレンジャー」、その男子シングルス決勝戦。

コートで対峙するのは、グランドスラム優勝通算6回の偉業を成し遂げるも、ケガ&スランプに苦しむトッププレイヤーのアート(マイク・ファイスト)と、現在ランキング271位と落ち目ながら、この大会での優勝をキッカケにトップへの返り咲きを狙うパトリック(ジョシュ・オコナー)。

観客席では、アートの妻であり、コーチ兼マネージャーでもあるタシ(ゼンデイヤ)が、固唾を飲んでこの一戦を見守っている。

実はその十数年前、アートとパトリックは“ファイヤー&アイス”と渾名され、全米ジュニアのダブルスで優勝するほどの名コンビだったが、スターダムを駆け上ろうとしている天才テニスプレイヤーのタシと出会い、そんな“才能溢れる美しきお姫様”を巡って、互いをライバル視し競い合うことになる…。

こんな序盤の展開だけ観ても、本作は前者にカテゴライズされる作品に思えてくるのだが、以降紡がれていくストーリーを要約すれば、1人の女性テニスプレイヤーと2人の男性テニスプレイヤーの十数年にわたる愛の物語、“女性を頂点とした三角関係”の物語ということになるだろう。

3人が出会って間もない頃に形成されたトライアングル、その頂点に立っていたのは“テニス界のミューズ”とされるタシ。

ニューロシェルの試合から遡ること13年前。
劇中、初めてタシがその姿を現す2006年全米ジュニア女子シングルス決勝戦。
アディダスの純白のテニスドレスを纏った引き締まった肉体&ひっつめヘアのタシが、コート上で闘志剥き出しにして「Come on!」と吠える様子は、客席で観戦していたパトリックの言葉「彼女は別格で、最高にHOTな女性なんだ!」、その一言が見事に言い表している。

そして続く、優勝祝賀パーティー。
鮮やかなコバルトブルーのドレス姿で、タシがリズムに身を任せて艶かしく踊る曲、ネリーの「Hot in Herre(02年)」は、遠くから彼女を眺めているアートとパトリック、その胸の内を顕している。

「♪〜思いっきり腰を振っていちゃつきたい/モーションをかけるタイミングを見計らっているんだ/(中略)ゆったり構えて 君に触れたいんだ/もう誰も止められない/すごくアツくなってきた/服なんか全部脱いじゃえよ〜♪」

知名度・将来性・実力の世間的評価が上のタシを羨ましくもあり、負い目さえも感じているアートとパトリック。
そしてタシは”性的魅力”によって2人をコントロールし、女性としてもテニスプレイヤーとしても”無敵の存在”となる。

だが、アートとパトリックは、タシを取り合おうとする“攻防”を楽しむ。
お互い相手を出し抜こうとしたり、相手のアタマに疑念を植え付けようとしたり、マインドゲームを繰り広げるのだ。

パトリックはタシと同等でいたい、出来るなら主導権は自分が握りたいタイプ。
アートはタシに従順になることで近づこうとする。
そしてタシも、そんな2人を自分の楽しみのために「どう利用しようか?どう操ろうか?」と画策している節もある。

タシは劇中、こんな言葉を吐く。
「私にとって、ちっちゃな白人の坊やたちの面倒を見ることは、とっても重要なことなの」

2人の男性の間で揺れているようでいて、実のところ、タシが求めているのは“純粋な愛”ではなく、勝つことや緊張感からくる“興奮”だ。

初めて言葉を交わした夜、パトリックに「テニスとは何か?」と問われたタシは、「テニスとは”Relationship”、すなわち対戦相手との関係性だ」と即答する。
ボールを交わすうちに対戦相手を深く理解し、ついには2人だけで彼方の美しい世界へと至るらしく、それは対戦相手と恋に落ちるようなものだと言うのだ。

つまり、お互いを刺激し合い、高みを目指すことで得られる“興奮”、それがタシのテニスの定義であり、彼女はアートとパトリックにもその関係性を求めていく。

そしてパーティーがはねた後、タシによる「明日の全米ジュニアに勝った方に電話番号を教える」という2人への宣言は、次第に「彼女を得た方がより強いプレイヤーになる」という感覚に変わり、遂には本作を“支配権を巡る物語”へと変容させる。

全米ジュニアの決勝でアートを下したパトリックは、タシの電話番号をゲットし、めでたく彼女のボーイフレンドになるのだが、大学に進学したタシとアートとは別の道を進み、「カレッジテニスは時間を浪費するだけだ」とプロに転向。
そこでツアーから戻ってきたパトリックが、タシとちょっとしたことで口論になるシーンがある。

「ツアーの試合をネットの配信で観ていたけど、勝てたはずなのに第3セットで崩れ始め、結局勝てた試合をミスで落とした」と、タシはパトリックにダメ出しをする。

さらにタシは「彼氏が下手だとカッコつかないから、タダで助言してあげているのに迷惑ならもうしないわ。アートの方が頭はスマートだし見た目も最高!テニスも上手!実はアートが怖いんじゃないの?」と、パトリックの神経を逆撫でするような言葉まで吐く。

当然、パトリックは「またアイツと競わせる気か?君のコーチは必要ない!!オレはアートとは違う!君とアートはお似合いだ!アートは君の付属物だ!!」とブチ切れ、この大喧嘩が延いては2人の破局、さらには直後の試合でタシが選手生命を断つ大怪我をする要因となるのだが、まるでこのタイミングを見計らったかのように、アートがしゃしゃり出て、茫然自失・傷心中のタシに付き添い、支えていくこととなる…。

こんな支配を巡る駆け引きは「相手側のコートにボールを打ち返す」、まるでテニスの試合を見ているようだ。

[注:大喧嘩する2人の会話はワンシーンワンカットで撮影され、まるで打ち合うボールをフォローするかのように、罵り合うタシとパトリックの表情を交互に素早いパンで捉えている]

それを最も象徴しているのが、本作の構成、その基本軸となるニューロシェルの決勝戦で導入される劇画チックな映像。

プレー中のカメラワーク及び編集は、2人の愛憎相半ばする“タシへの思い”、2人の間で取り合いされる“タシの視点”のようにも思えてくる。
ネットを挟んで打ち返されるボールは、アートとパトリックの両者間を行き来する、タシの化身と云えよう。

ラリーの応酬をパンやカットバックという常套手段だけでなく、“ボールを打つインパクトの瞬間のみ”で描き出したかと思えば、プレー中の2人のPOV(一人称による主観ショット)、ラケットに打たれたボール自身のPOVへとドンドン切り替わってゆく。

さらに、カメラは汗が滴り落ちるアートとパトリックの超クローズアップをハイスピードで捉え、サーブ時には相手の気持ちを探るように交わす視線、プレーの合間では客席のタシに伺うような眼差しを向ける2人の表情にフォーカスする。

そしてタシは、時に勇気づけるような、時に苛立っているような、2人の間で揺れ動く複雑な思いを目元に浮かばせている。

監督のルカ・グァダニーノは、三者の視線のやり取りを丁寧に、かつダイナミックに描写してみせるのだ。

ルカ・グァダニーノは初の長編劇「メリッサ・P〜青い蕾〜(05年)」で、ティーン女子の過激な性体験を綴ったベストセラー小説を、祖母・母・娘の三世代にわたる家族、その三角関係の綻びと再生をテーマとして大胆な脚色を試みているし、「胸騒ぎのシチリア(15年)」でも、声帯を痛めて療養中の女性歌手と恋人のカメラマン、歌手の元恋人だった音楽プロデューサーとの三角関係をスリリングに映し出していた。

なので、本作は、こういったグァダニーノ独自のシニカルな人間感=繊細さの中に厳しい観察眼を利かせた人物描写、人間心理の陰影を浮かび上がらせる作風、その延長線上にある作品と云えるかもしれない。

だが、しかしながら、「特定のスタイルを持たないことが私のスタイルだ」とグァダニーノが公言しているように、本作「チャレンジャーズ」は表層的にはタシを巡ってアートとパトリックが争う三角関係の物語なのだが、それと同時にアートとパトリックの間に“友情以外の何か”が存在していることを浮き彫りにしていく。

観ていて「エッ?コイツら、本当は誰が好きなの?」と疑惑を抱かせる、とんでもない方向に舵を切るのだ。
しかも、グァダニーノは互いの胸の内、その本音をハッキリと喋らせない、思わせぶりな描写だけで綴っていく。

例えば…アートはテニスをする前、噛んでいたガムを“心を開いた相手の手のひら”に阿吽の呼吸で吐くクセがあるのだが、タシは勿論のこと、パトリックにもする…。

次にサウナで偶然出会う2人。当然お互い、下半身に巻いたタオル一枚の姿。
話しかけようとするパトリックに向かって、アートは「しゃべる前にまず、チ◯コをしまえ!」と言うが、会話中、アートはパトリックの股間が気になって仕方がない(笑)。

一方のパトリックも、大学のカフェテリアで、アートの座る椅子を足ですっと引き寄せ、恋人同士みたいな密着状態で、1本のチュロスを自分が一口かじった後、微笑みながらアートに食べさせる。

そのあと2人は、共に仲良くラケットバッグを肩に下げてルンルン気分でカフェテリアを出ていくのだが、その後ろ姿が、劇中序盤、モーテルの宿泊料金が払えずフロントと押し問答を繰り返すパトリックを傍観している、物語の本筋には全く絡まない初老のゲイカップル、そのキャリーケースを持った後ろ姿にソックリなのだ(!!)
[注:他にもマジで細いところだが、パトリックの携帯、そのデート・アプリには女性だけでなく、男性の写真も紛れ込んでいたりする…]

この演出法は、タシとの関係を示すシーンでも繰り返される。

ニューロシェルの決勝戦の9年前、レストランで食事をしながら、タシがアートに自分に対する気持ちを確認する場面なのだが、アートは好きだとハッキリ告げられず、まわりくどく「パトリックに勝つためにボクのチームに加わってサポートしてくれ」としか言えない。

この時、レストランの店内で微かに流れているBGM、ブルース・スプリングスティーンの「Tunnel of Love(87年)」がそんなアートの胸の内を代弁している。

「♪〜ボクのそばにいておくれ ダーリン/ボクたちは愛のトンネルに乗り入れていくんだ/(中略)男と女が出会い 恋に落ちることは簡単だ/でも乗りこなすのは難しい/だからこの愛のトンネルを一緒に進んで行こう〜♪」

さらにこのシーンで注視したいのが、レストランの壁にこれ見よがしに貼られた映画「マドンナのスーザンを探して(85年)」と「サムシング・ワイルド(86年)」のポスター。

「マドンナのスーザンを探して」は、退屈な日々を送る主人公が、自分とは正反対の眩くようなファッションを着飾るマドンナ扮するスーザンに魅了され、スーザンそっくりの格好になるも、“外見上の姿”と内心では“こうなりたいという姿”とのギャップに思い悩む展開。

そして「サムシング・ワイルド」は劇中で絶えず流れる曲、チップ・テイラーの「Wild Thing(65年)」の歌詞「♪〜イカレてる/ボクをそうしたのは君さ/君にイカれちまった〜♪」そのままに、鬱屈した男が運命の女性と出会ったことで、“自分の意に反した人生”へと変えられてしまうハナシだ。

つまり、この2枚のポスターは、タシの望む理想の恋人&テニスプレイヤーになることで、果たして自分は幸せなのか、そんなアートが心の奥底に隠した“不安・葛藤”を婉曲的に顕している。

そして極め付けなのが、グレーのコットン地に黒の大文字で、「I TOLD YA(だから言ったでしょ)」とプリントされたTシャツ。
劇中ではタシからパトリックへと所有者を変え、その言葉の通り、それぞれにある種の“意味・役割”を感じさせる。

スタンフォード大学時代、キャンパス内のカフェテリアでアートとのランチ中、タシが着こなしていた姿がオーバーサイズっぽいので、元来の持ち主はパトリックなのだろう。

この時、アートはパトリックとの仲を裂こうと「アイツは君のことを愛していない」と嘯くのだが、タシは「私が彼の愛を求めていたとでも言うの!?」と怒った口調で言い返す。

ここでの「I TOLD YA(だから言ったでしょ)」が意味するのは、その1年前アートとパトリックに初めて出会った夜、砂浜で告げた「私、略奪愛はしないから!」を指している。

パトリックもアートもこの時点ではおそらく自覚していない“同性愛者”である真実を、タシは初対面で見抜いていて、同時に自分が2人の間に割り込んでしまっていることをハッキリと自覚していたのだ。

[蛇足ながら…砂浜でアートたちと語らいながら岩の上に座るタシの姿は、デンマークのコペンハーゲンにある「人魚姫の像」と瓜二つだ。人魚姫は愛した人を殺すことも、幸せも奪うことが出来ず、自ら死を選び、泡となって消えてしまう…]

次に、パトリックと別れて4年後(=ニューロシェルの決勝の8年前)、アートとの関係に隙間風が吹き始めたタシの前に、突然パトリックが「I TOLD YA」のプリントがされたTシャツを着て現れる。

それはまるで「だからオレは言っただろう、キミは今もオレを求めているのさ」と、ドヤ顔で言い放っているかのようだ。

このように、本作「チャレンジャーズ」では、何気ない動作や言葉、音楽・モノなどが人物相互の関係を物語っているのだ…。

また、この映画は“モチーフの反復”を多用した緊密な構成になっている。

パトリックとアートが戦うニューロシェルの決勝戦(2019年)を主軸に、その試合前の数日間、3人が出会った2006年とその後の3年間、そして2011年のとある出来事を行き来しながら進む。

ぶっちゃけ初鑑賞時、時系列がゴチャゴチャしすぎてものすごくジレったく、腹が立つ瞬間もあったのだが、現在のアートとパトリック、そしてタシの“立ち位置と力関係”が十数年前の彼らからどのようにして変化していったのか。その謎解きミステリーという点でも、観る者をスクリーンに釘付けにする牽引力があると思う。

あくまでも個人的な感想だが…
時系列に沿って一直線に結末へと進む展開ではなく、ジグザグに物語が綴られることによって、タシたち3人が、大人に成りきれていないように思えてくる。

過去と現在がシャッフルされた彼らの心魂は、いつまでも出会った頃、高校生のままなのではないだろうか?
だからこそ、互いに主導権を奪おうと、大人気ない振る舞いをするのだ。

劇中のパトリックの台詞、「ガキみたいにボールを打ち合うだけの人生だった」が、そのことを如実に物語っているように思えてならない…。


最後に…

本作のタイトル「チャレンジャーズ」は、ランキング下位選手の登竜門的大会「ATPチャレンジャーツアー」、そして複数形になっていることから、タシの愛を勝ち取らんとする2人の“挑戦者たち”=パトリックとアートのことを指すダブルミーニングなのだろう。

しかし自分には、無限の明るい未来があると信じていたのに、現役を退かなければならないほどの大怪我を負ったため、男2人を利用して自分の夢を叶えようとしたり、失ってしまった自分のテニスに対する熱い情熱、パッションを取り戻したいと願う“タシの挑戦”にも思えてきてしまう…。

そんな風に感じさせるのは、終盤に流れる劇伴、カエターノ・ヴェローゾの「Pecado(罪/94年)」のせいかもしれない。

ニューロシェルの決勝戦前夜、ホテルでタシがアートに「明日勝てなかったらXXしましょう」と意を決して告げるシーンから真夜中に寝室を出てパトリックと連絡を取るところまで、ボサノバチックなこの曲がしんみりと切なく、心に響く感じで聴こえてくる。

「♪〜この恋が罪なのかどうか分からない/きっと罰は与えられるだろう/まるで疾風を浴びたかのように 私は何度も引きずり回される/でも私の人生 私の信条 私が生きている証は守られなくてはならない/たとえ それが罪だとしても/私にそんな権利がなかったとしても〜♪」


あとホントにどうでもイイことだが…

本作「チャレンジャーズ」は、同じ配給会社ワーナー・ブラザースによって5月末に公開された「マッドマックス:フュリオサ」の陰に隠れ、その1週間後、ひっそりと封切られた。

「フュリオサ」が全国867スクリーンに対し、本作は僅かに31スクリーン。
日本の配給元ワーナーが話題作に賭けて、敢えて「チャレンジャーズ」を捨てたとしたなら、これは非常に悲しい話だ。

まぁ、そもそも製作元のAmazon MGMの映画ビジネスの論理が、「劇場興行よりも、Prime Videoでの配信開始時に、どれだけの視聴数を獲得し、いかに大きな話題を創出できるか」。

つまり、劇場公開を“Prime Videoの一種のプロモーション”とさえ割り切っているので、仕方がないことかもしれないが…(涙)