あ

役者のあのレビュー・感想・評価

役者(1948年製作の映画)
4.5
デカルトの「我思う故に我あり」ではありませんが、演じることは嘘をつくことではあるものの、演じている自分は確実に存在しているということを強く証明してみせた映画でした。

ギトリ父は、演じながら手紙をしたためたことで、ただの自分ではなく、自分が演じている劇そのものをダイレクトにイタリアの女優へ届けるという高等テクニックを使ったわけですが、その父をさらにギトリ本人が演じた上、ギトリが演じるギトリ自身が舞台と客席を挟んで、もしくは電話越しに父と対話するという、同時に演じるということを最大限までやってしまった凄まじい映画でした。

そんなわけで、本当は完璧な作品だと思いたいところですが、代役を務めた彼女に対する態度には引っかかりを感じます。彼女には恥知らずな面があることは確かですから、主演を固くお断りすることはごもっともだと思います。しかし、都合よく代役に使っておいて「軽い気持ちでやっているやつは弾いてきた」的な言い草をしたのは流石に失礼だと思います。相手が恥知らずだとしても、相手の強い思いまでを否定する根拠、権利はどこにあるのでしょうか?

映画に関してもそうですが、そもそも創作の評価基準は曖昧なのですから、相手の技術不足の指摘は結構ですが、動機や人格までを疑うことにはプロフェッショナルの奢りを感じてしまいます。自分の正当性を主張するために他人の足元を見ているプロフェッショナルの誇りは見苦しいです。

なんかプロフェッショナルという少数のエリートの独断で若手の人生が左右されてしまうという現状が、昨今洋の東西を問わず浮き彫りになってきている芸能界、テレビ、映画業界の地獄みたいなコンプライアンスに表れているような気がしてなりません。

本作であれば、少年に対しても柔軟な師匠と、息子の興味に理解がある協力的な家族の存在があってこそのギトリ父という視点がもう少しあってもよかったのではと思いました。実力だって実績だって所詮は運ですからね。なにごとにも誇りがなければいけないというのも、非常に貧相で夢のない考え方だな、と思います。もし全てが運だと虚しいと思うなら、それは自分がやっていることを信じているのではなく、自分の地位やキャリア=正当性を信じているからではないのでしょうか?
あ