しの

碁盤斬りのしののレビュー・感想・評価

碁盤斬り(2024年製作の映画)
2.9
元ネタの古典落語に映画ならではの肉付けをしたことによって、話がよく分からないことになっている。そもそも主人公の柳田をどいういう人物として提示したいのかが定まっていない印象。そのため、彼が通そうとする「清廉潔白」のスタンスをこの作品がどう受け止めているのか分からない。

まず、柳田という人物は名誉を重んじる武士道の人で、「筋を通す」ことに固執しすぎる危うさのある人物として描くべきだが、本作では冒頭で萬屋が彼のスタンスに感化されるくだりを入れたり、新たに復讐譚を用意してその明確な悪役を設定したりしているため、彼の危うさが見えづらい。おそらく前半で彼の清廉潔白さの正の面を描き、彼が復讐に囚われるにつれその負の部分が表面化してくるという構成を狙ったのだろうが、しかしたとえば碁盤は最後まで「正々堂々と戦う」ためのアイテムとして一応は扱われてしまっているので、タイトル回収されてもそれが良いオチに思えない。

しかも、原作では武士道の柳田と一般の町人との間で見栄や名誉に対する価値観が違うというところが要点(であり笑いどころ)だったはずが、本作では武家出身の弥吉との間で例の「約束」を交わしてしまうので、そこに相対化の目線が入り込まない。これもまた、オチが効かなくなっている要因だと思う。

あと、草彅剛が柳田を単に生真面目な人物としてしか捉えていないように見えるので、この点でも主人公のポジションがよく分からなくなっている。やはりもっと作品として明確に柳田の信じる「正しさ」が揺るがされる瞬間を設けるべきだった。これでは無駄に複雑化してるだけだ。

まず、50両の騒動と掛け軸の騒動が同時並行で発生しまう複雑さに物語上の意味がないので、ここは分離すべきだと思う。やはり主軸は50両の話にして、長屋に居られなくなった柳田が流浪の末に悪役に出会い、それが自身の価値観の揺らぐキッカケになる……みたいな流れの方が見やすい気がする。もっと言えば、元より萬屋は柳田を信頼していたのであって、この話は柳田が筋を通す儀式に拘ったがためのすれ違いでもある。であれば、物語は彼らが再び正々堂々と碁を打てるようになるという所に回帰すべきではと思う。命を賭けた勝負はつまらない、萬屋お前と再び碁が打ちたい、くらいのオチでいい気が。わざわざ碁盤斬りに拘る必要ないだろう。

終盤も色々とおざなりだなと思う。前半で商の世界の厳しさを見せておいて、結局終盤で人情噺のために身内に甘くなるお庚の茶番感。そしてエンドクレジットの意味不明さ。正義が揺らいだ柳田は再び流浪の旅へ……という、画自体はよくあるものだが、ここまで120分語ってきた物語やキャラクターにマッチしていない、非常に目的先行な設計だと思う。

言うまでもなく、これらは全て映画のオリジナル要素なのだ。斯様に、全体的に再編がダメだったと思う。
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