パングロス

碁盤斬りのパングロスのレビュー・感想・評価

碁盤斬り(2024年製作の映画)
4.3
◎草彅格之進の存在を際立たせた共演と白石演出

『柳田格之進』は本格的に武士を主人公とした東京落語の古典である。
「東京」と書き「江戸」としなかったのは、講釈ネタを明治期に落語に移したからで、武士の零落を扱う噺は江戸時代には口演できなかったはず。
つまり、江戸時代から伝わる噺ではなく近代の落語なのだ。

その落語版を原作として脚本家の加藤正人が大幅に増補して作劇したのが本作。
同氏によるノベライズもあるようだが本作脚本が先だ。

結論から言うと、近年の、それもここ20〜30年ぐらいのスパンで言っても、最高、最良の時代劇の一つだ。感涙にむせんだ。

【以下、ネタバレ注意⚠️】








もう少し『柳田格之進』について述べると、昭和に入ってからは五代目古今亭志ん生(1890-1973)が得意とした。
そして、その長男 十代目金原亭馬生(1928-82)と、次男 三代目古今亭志ん朝(1938-2001)という、兄弟でありながら全く芸風の異なる二人がそれぞれのスタイルで名演を残し、今も後輩落語家たちの良い手本となっている。
(演者名と演目で検索するとYouTubeで口演が聴けるが権利関係が不明なのでリンクは避けておく。)

* 「柳田格之進」で検索
ja.m.wikipedia.org/wiki/

原作の落語は、柳田格之進と萬屋源兵衛が碁会所で知り合う発端から、萬屋での50両の紛失、格之進の娘お絹の吉原への身売りによる金の工面、そして紛失した50両が見つかると格之進は番頭徳兵衛と源兵衛に約束の首をもらうと一旦凄むが「碁盤斬り」にて落着する、という至ってシンプルな筋である。

原作では、いささか短兵急な番頭徳兵衛の先走りで、体面を重んじる格之進の武士としての誇りを傷つけ、娘のお絹さえ身売りすることになるが、本作では、番頭徳次郎(音尾琢磨)と手代弥吉(中川大志)に役割を分けている。

これが実に効果的で、弥吉は武士を親として生まれながら孤児となって源兵衛(國村隼)に養われ内々家督を継がせるつもりであること、加えてお絹(清原果耶)に密かに想いを寄せていること、の二つの設定がドラマに説得力を増している。

50両紛失の責任を格之進に負わせようとする番頭に対して、もとから弥吉にその気はなく、いやいや格之進の棲む裏長屋に使いに行ったこと。
さらに弥吉は、姿を消したお絹と、吉原に使いに行った折に偶然再会し、「あの50両」がお絹の身売りの代償だったことを悟った。
そのときの弥吉の感じた底知れない悲しみ。
まさに父親格之進が胸を痛めた、その心底の悲哀を我が身のこととして感じられるのは、お絹に想いを寄せていた弥吉以外には確かに考えられない。

そして、番頭と主人源兵衛の首の代わりに、碁盤を斬ることにした理由は、原作でも番頭と源兵衛との庇いあいではある。
しかし、本作における、弥吉が育ての親を心から救いたいと庇い、源兵衛が行末春秋に富む弥吉の命を必死に助けたいとの訴えのやり取りの方が数等倍ドラマティックだ。

また、吉原の妓楼「半蔵松葉」の女将お庚(小泉今日子)と格之進が、もとから手内職の印判の篆刻と碁指南の縁で、お絹ともどもに知己であった設定も良かった。

酸いも甘いも噛み分けたお庚が、何事もないときに格之進やお絹に見せていた笑顔と、自分の店を足抜けしようとした遊女に対する情け容赦もない折檻を命ずる二面性に、「見れば極楽、入れば地獄」の廓吉原の本質を体現させる上手い脚本と言えよう。
小泉今日子の演技も、貫禄充分で素晴らしく申し分ない。

「50両の返金が大晦日までに間に合わなければ絹を遊女として店に出す」というお庚の言い草は、これも落語の名作にして歌舞伎としても定着している『文七元結』からの転用。

かように落語の本筋を膨らませた部分は、実に上手い構成で、親子の恩愛に、若い男女の相思相愛を絡ませたドラマは感動的で、滂沱の落涙を押しとどめることができなかった。 

もちろん、本作一番の主題である「尾羽打ち枯らすといえども痩せても枯れても武士でござる」という、柳田格之進の武士としての誇りと屈託とを、常に演技ではなく、ありのままの存在を見せつけて驚かせる草彅剛が堂々と真に迫っていた。

本作に不満があるとすれば、原作にない、仇討ちのくだりの不熟さだ。
仇の柴田兵庫を演ずる斎藤工は、どうも悪役としての貫目が足りなかったし、そもそも真面目一本槍の格之進に対する武士としてのアンチテーゼを示す、その理路も話を聞いても何が何だか良く分からない。

格之進派の彦根藩士梶木左門を演じた奥野瑛太は良かったが、最後に、肝心の「探幽の一軸」を格之進が強いてもらい受ける理屈は良く分からず、なくもがなではあった。

初めての時代劇という白石和彌のカメラは、マキノ雅弘のように、くっきりはっきりとした明暗や構図に依らず、電気照明がない江戸時代の自然な「暗さ」を活かした、日本版時代劇ノワールの味わいを演出できていた。

時代劇経験を積んだ手だれの製作者が、ともすれば従来の約束事にがんじがらめになって平均点以下の成績しか出せないことが多いのに対して、加藤正人と白石和彌は、今まで見落とされてきた新たな題材を「古典」に見出し、今までにありそうでなかった新しい日本時代劇の「古典」を産み出し得たのではないか。
本作は、きっと新たな「古典」として、今後舞台劇などの形でもリメイクされて行くような気がしてならない。
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