耶馬英彦

逃げきれた夢の耶馬英彦のレビュー・感想・評価

逃げきれた夢(2023年製作の映画)
4.0
 教師の定年は今年(2023年)から段階的に引き上げられるが、映画の時点では60歳である。娘があと一年で定年だと言っていたから、主人公の末永は推定59歳だ。ほぼ還暦である。
 本作品は、人生を力強く肯定するとまではいかないが、人生をそれなりに肯定する。光石研が還暦男の悲哀と諦観を上手く醸し出している。筒井真理子主演の映画「波紋」でも普通の夫を上手に演じていて、こういうタイプの役に欠かせない俳優となった感がある。

 言葉は言霊などと呼ばれることがある。言われた方は憶えているが、言った方は憶えていないことはよくある話だ。誰でも中学や高校の間に教師に言われた言葉の中に、いまでも憶えている言葉があると思う。言霊は言われた方にとっての話だ。

 子供の頃は本音だけで生きている。しかし歳を取れば取るほど、本当のことが言えなくなる。思っていることよりも、自分が何を言うべきかを優先してしまうのだ。家族に対しても同じである。いや、家族に対しては尚更、本当のことが言えない。
 しかし本作品の末永は、とうとう本音を洩らす。還暦になってもいまだに人生に迷っている情けない自分をさらけ出すのだ。その姿が、とても立派に見えたのは当方だけではないと思う。坂井真紀が演じた妻が「あなたって、こんな人だったっけ?」と驚くのは無理もない。思春期に自意識が増大して以降、本当のことなど言ったことがなかったのだ。

 吉本実憂が演じた教え子の平賀との会話は、妙にスリリングだ。秘めた駆け引きもないことはないが、それよりも開けっぴろげに本音を言い合う爽快さがある。別れの言葉もなしに去っていく末永の背中に、何か吹っ切れたものを感じた。

 人生の真実を切り取ってみせた作品である。タイトルの「逃げ切れた夢」は解釈が難しい。末永は子供時代は恵まれていたと思っている。その後の人生も、そんなに酷い状況に陥らないままにやり過ごせた。公立高校の教師になって税金で給料をもらい、家も建てて、娘も育てた。痴呆の父親を施設に入れることもできた。自分も痴呆の兆しはあるが、なんとか酷くなる前に死ねたらいいと薄っすらと願っている。

 舞台は福岡県。松重豊が演じた旧友が「しゃあしい」を連発するが、これは九州弁で「やかましい」という意味で、余計なお世話という意味も含んでいる。「嫌い」という代わりに「好かん」を使うのも九州弁だ。否定的な表現をオブラートに包む京都弁の文化が流れてきている言葉だと思う。
 本作品では方言がそのままだが、大方の人は意味が理解できたと思う。それだけ光石研の演技も二ノ宮隆太郎監督の演出も見事だったわけで、とても楽しく鑑賞できた。ただ一点だけ、最近学校に来なくなっている、あと半年で卒業の女生徒のことはどうなったのだろうか。それだけがやけに気になる(笑)。
耶馬英彦

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