矢吹

走れない人の走り方の矢吹のレビュー・感想・評価

走れない人の走り方(2023年製作の映画)
3.9
猫のシーンを見て、やっぱりこの主演の方見たことあるぞと確信した。
猫は逃げた、の人だ。
また、猫が逃げていた。

最近見た映画の中でも群を抜いて、はるかに絶望に近い時間があって、吃驚した。
相当の最悪と、前倒しにしていた最悪達と最悪の予感が、ゴタゴタに絡まって狙い澄ましたかのようにデカい一個の最悪の塊になって目の前に現れる、そんなとてつもないシーンだったうえに、しかも、待ち侘びていた最大の幸福の瞬間さえも同時に訪れてしまうという、やりたい放題。
そもそも、人のお仕事に関する映画なもんで、より鮮明に、見ててなかなかに辛い。
こういう瀬戸際、迎え撃ち方は2つあるかな。
即座に片っ端からエンジンぶん回して自分自身の最高速度で世界と対決してしまうか。
一旦落ち着いて、自分の最も馬力の出せるバランスと装備を整えてから、向かうところ、敵なしでいくか。無敵とはこのこと状態で。
今作は、割と後者。
そもそも、いきなり前者の勢いをぶちかませる人は、あんまり最悪を先延ばしにしまくったりしないイメージもある上で、
これは、走れない人の走り方。
動かない車、いなくなった主演、なくなる予算、全くもって完璧じゃないキリコ。
もはや、映画監督というアーティストの幻影を多少なりとも重ねようと思えば、流石に、あまりにも頼りなくも見える人。
今、考えてます。まだわかんないっす。ってまっすぐ言葉にする。
やりたいことなんかあったら、映画じゃなくていい。というスタンス。
正直な人の正直な映画。
その正直さは、本来の蘇監督が、きっと、とんでもなく暖かく担保してくれてるんだと思う。
特に、キリコが世界の中心であるかのようには全くもって映らないし、
もはや、世界の中心なんて、別にない。
と言わんばかりの、オムニバス感溢れるエピソードたち。
台湾の映画館、うるさい。
電車の中の人。10年延滞。映画館のタイムカード。通りすがりの笑って。きゅうり。寝てた監督。お父さんの焼きそば。自転車屋さんの娘。
占い、天秤座の人。
やっちまいなの紫。

車の修理代が必要な時に、ちょうど、実家で高校生の時の貯金箱が見つかって、いざその中身を確認してみれば、別に足りるほどの金額でも全然なかったシーンの、キリコの「これで何とかなるんじゃないのかよ」みたいなセリフも、あったと思うけど、
まさに、何か大きな、劇的な一個のきっかけのおかげで、彼女は前を向けるわけでも、後ろ向きになるわけでもない。
人生なんだから、自分以外の世界との関係性の積み重なりによって、自分の心は決まる。
偶然でも必然でも、作為的でも結構。
その徐々に温まっていく、血が順番に体をめぐる、お風呂みたいな熱と温度が、この映画にはあったように思う。

例えば、ふと、街中で目があった人のその後と、ついさっきまでの人生を、想像する時間。という、趣味人間観察。みたいな浅はかさとは全く違う、人に対して、いやらしくないタイプの思いやり。
そういう、時間の進み方を随所に差し込む、めっちゃ映画な、映画。
映画の持つ不思議を信じて、任せてしまう。
未来も過去も、まとめてしまえる。
時間と人類を平等に編集する。
しかも、その気遣いを、スクリーンの外側の、観客たる我々にまで向けてくれる。
観客席から映画を見てるシーンを、私たちは、ほぼ鏡合わせに覗き込む。
あっち側にも、それがバレてる可能性は大いにあるとも、思わせてくれる。
古典的なアニメのようなフェードアウト、それはアイリスアウトというらしい、とか、その逆フェードインとか、猫がこちらのカメラに気づく瞬間とか、ただただ編集的な遊びの幅も大きくて、見ていて本当に楽しい。

キリコの劇中劇の中に、観念的すぎるよ、というセリフがある具合のところまで、触れ込む観念的なセリフたち。も魅力的で、
人がその土地を何度も訪れたって、同じところは一つもない。気持ちか違うんだから。とか、
人には奪えないもの。がある、思い出ってこと。とか、
人間のプラスマイナスは気にしたって、所詮は最初から何もないのと同じなんだから。とか、
キリコがその場にいればいいと思うよ、という励まし。とか、

中でも、すごく好きだったのが、
「キリコのことを、悲しい気持ちで思い出したくない」ってセリフ。
台湾の文化についての話も劇中に諸々出てきた中で、わざわざ結びつけていいか知らんけど、セリフの主も台湾の人だってのはあったりして、今まで邦画で触れたことのない文脈だったし、こういう文化的な下敷きの厚みと透明感の些細な違いはきっと、この映画を、俺が好きになれる理由の1個にも確実になってるんだろうなと思った。
あなたを、悲しい気持ちで思い出したくない。

そして、
映画ってのは、装備なんだと、なんか、改めて思った。
生きる上で、もしよかったら、見れるだけ見て、増やしたらいいんだよ。

上映後のトークショーで、
蘇監督が、タイトルの由来は、昔、自分が走っている姿を見た人から直接言われた言葉だ、と言っていた。
そして、
やっぱり、人に言われたことってすごく映画に反映されるんですねって沖田監督が、言ってた。
矢吹

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