デッカード

ミッシングのデッカードのネタバレレビュー・内容・結末

ミッシング(2024年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

※6,000字になりました。
もはや自己満足、単なる自分の映画鑑賞記録です。



6歳の娘が行方不明になってしまった夫婦とそれを追うテレビ報道記者の姿を描く。

物語は映画のA面として沙緒里と豊という娘が行方不明になってしまった夫婦のことと、映画のB面としてテレビ局の砂田のことが描かれています。
鑑賞後この二つの物語はそれぞれにボリュームがあり常に並行して描かれていることから、双方について描きたいものがある作り手の意図を感じましたが、最終的には現代社会の縮図としてクロスオーバーする仕組みになっていたと思います。

まず映画のA面夫婦の物語ですが、たくさんの人たちが感想で書かれているように正視できないほどの苦しさに満ちた物語でした。
その背景には、やはり沙緒里の石原さとみと豊の青木崇高、それぞれの演技の凄まじさがあったからだと思います。

子育てのちょっとした気晴らしにアイドルのライブに行っていた、その間に娘の美羽が行方不明になってしまった沙緒里の、美羽を心配する気持ちと強い自責の念、先の見えない不安…それが毎日何度も心の中でループし繰り返されることは無間地獄と言っていい心情だと思いました。
また夫の豊も感情的になり自責の念に苦しんでいる沙緒里の心情がわかっているので、無理をして必死に平静を装っています。
ただ豊の心の中には、ライブに行っていた沙緒里と、美羽を最後まで家に送らなかった沙緒里の弟の圭吾に対する許せない、理屈では割り切れない感情もあり、そんな苛立ちをうかがわせる言葉をつい口にしてはそんな自分に後悔ばかりしています。

石原さとみの演技は、不謹慎な言い方ですが、正直鬱陶しく見えるほどの熱量を帯びています。
「ちょっと鬱陶しく思う」
観客が沙緒里に同情しながらもかすかに持つそんな感情は、実は夫婦の出来事を所詮他人事と思っている周りにいる他者の目線を観客にも追体験させるための演出のように思いました。
他人の一言一言や行動に過剰に反応し、ときには食ってかかる沙緒里。
その心中を観客が理解できるのは、劇中家庭内で苦しんでいる沙緒里の姿を見ているからです。
しかし、少女の行方不明を他人事だと思っている周りの人たち、沙緒里の心中に思いを馳せることなど想像もできない人たちの客観的な視線からは、沙緒里の行動は確かに異常にすら見えますし、その姿に常軌を逸したものを感じるのも当たり前のことのようにも思えます。
石原さとみの演技は、彼女のキャラクターも含めてインパクトがありました。
石原さとみのキャスティングにより、この作品が内包する「映画の登場人物には簡単に感情移入できる」のに、現実の社会で「他者の出来事を自分のことに置き換えてみる」ことがなかなかできない、そんなむずかしさ、そしてそれゆえの他者への不理解に説得力を持たせることにもキャスティングとして成功していると思いました。

しかし、この現実のむずかしさをこの映画は最終近くの局面で乗り越えます。
沙緒里たち夫婦は全く縁もゆかりもない、ただ行方不明になったという共通点しかない他人の少女の目撃情報を探すためのチラシ配りに必死になります。
その背景には自分の娘の美羽との関連性への期待感もあるのですが、そこにはやはり同じ境遇の他者の心情への深い共感があると思いました。
そしてその事件で幸いにも戻ってくることのできた少女とその母親と沙緒里が邂逅し、戻ってこれたことに同じ苦しみに足掻いているからこそわかる喜びを見せる沙緒里とそれを見て夫の豊が感情を抑えきれず涙するシーンは印象的で、この映画を象徴する場面のように思えました。

そして、このシーンはこれから書くテレビ局の報道記者の砂田との関係性とは対義的な意味を持つシーンだったと思います。

映画のB面、かなりなボリュームで描かれているテレビ局のシーンの主役は、夫婦を取材する記者の砂田が体験する物語でした。

夫婦を取材し続けるテレビの地方局の記者・砂田を中村倫也がぶれ続ける決して善悪できれいに切り分けることなどできない、人間誰しもが持つ複雑な感情を表層には現れない演技で見せていてこれもかなり印象に残りました。

砂田の記者としての行動には矛盾がたくさん含まれています。
確かに砂田には沙緒里たちに寄り添おうとする気持ちも見えますが、やはりテレビ局の記者として長年培われてきた習性を隠すことはできません。
沙緒里たちに寄り添った報道をすると言いつつ番組の視聴率を上げるため演出として美羽の誕生日会を前倒しすることは象徴的ですが、夫婦の娘の行方につながる最後の希望であるはずのテレビ記者の砂田が、やはり自己中心的なテレビ局の人間そのものであることにはじくじたる思いにとらわれました。
砂田を擁護するような描写として局での上司からの理不尽に見える指示に翻弄させられる姿も描かれていますが、砂田の行動にはあらゆる職業を長年続けてきた人間が持ってしまう仕方ない職業人の性、世の中ではおかしくても業界での常識に縛られている仕事をする人が持ち合わせてしまう悲しい適応能力のようなものを感じてしまいました。

砂田を決して迷い苦しむ善意の人とは思えない背景には、やはり赤裸々といっていい描き方がされているテレビ局の実像への苛立ちを感じたからだと思います。

砂田が過去にはテレビ局では当たり前のテレビ的演出や編集などを何の罪悪感もなく行っていた、それで記者としてトップを走っていたことは後輩記者との居酒屋での会話で匂わされています。
砂田がテレビ局の報道の姿勢に対して疑問を持ち人間的感情との板挟みになるきっかけも、人としての善意が皆無ではないとはいえ、後輩記者に追い抜かれてどんどん置き去りにされていく自分の劣等感からで実は身勝手な理由に基づいています。

しかし、テレビ局の他の人物たちを見ると、どんな理由からにしろ人間的な感情に目覚めた砂田はまだまともな人間に見えてきます。
この描写が決してテレビ局の実像、全体像と言い切れるものではなく、後でこの映画が伝えようとするいくつかのテーマをわかりやすくするための、ある社会の側面の隠喩だと理解すべきだと思います。

が、やはり一言言いたくなるほど、その実像と思える描写は醜悪です。

若手の後輩記者が意気揚々と自分のキャリアのために他者のプライバシーに土足で踏み込んでいく、あげくそんな後輩のほうがキー局に引き抜かれる。
上司たちは何かと言うと「事実を報道する」というもっともらしい言葉を口にして砂田が配慮しようとする描写をテレビ的演出への変更を強要してくる。
自分たちが報道の中で糾弾している他機関などのパワーハラスメントが、実はテレビ局内部にこそ当たり前に存在していて自己肯定感の強さゆえの古臭い上下関係がハラスメントの温床になっている。

実は、こんなテレビ局の体質には映画を観ている人たちはずーっと前から気づいていて、今さら驚いたりはしません。
SNSなどで揶揄されながらも、古い体質でどこかズレた倫理観が支配している、その上番組自体の質の低下は明らかで視聴者も離れていっているのに自浄作用が働いていない事実。

「報道の自由」という大切な国民の権利のためと言いながら、実際は視聴率という経済原理を優先しているどこか歪んだ倫理観を内包した実像は大昔からわかっていたことでした。
バブルが崩壊してからスポンサーがつかなくなり、それはより顕著になり、演出の過激さだけに止まらず今や炎上による高視聴率を期待した番組作りも当たり前になっているのでは?と思えてきます。
映画でもスクープが「SNSでもバズっている」ことが記者の評価につながっている象徴的な描写もありました。

決して「報道の自由」を否定してはいけないと思いますが、国民にとっての「対権力への防波堤」であるはずの報道が実は歴史的には全く機能したことなどなかった日本の報道の歴史、今も変わっていない古臭いリベラルもどきの体質がこの映画では克明に描かれていました。

そんな嫌悪感しか持てない描写の連続ですが、決して映画がテレビを糾弾するためのものではないと思います。
それに代表させることで描きたかったと思われるいくつかのテーマについて書いていこうと思います。

一つは「他者の境遇への共感」というなかなか実社会ではできないことを描く上で、その思いの真逆の立場にいる、所詮他人事と思っている人たちの象徴としてテレビ局が描かれているように思いました。

それとテレビ局を分厚く描くもう一つの理由は、テレビ局の報道にどうしても感じてしまう他者に対する野次馬的好奇心とそこにある善意とはかけ離れた偏見や先入観が実は現代のSNSの誹謗中傷と地続きになっている、それを描く必要があったからではないかと思いました。

沙緒里が働いているみかん農家でも沙緒里がいなくなった途端に井戸端会議のようなウワサ話が始まるシーンがあります。
昔、井戸端会議で語られていた偏見と先入観に満ちた小さなコミュニティで共有されていたゴシップを、テレビがさらに国民みんなが共有する姿へと変えていきました。
そしてそれが現代になり、到底倫理観などない興味本位や軽い気持ちの無責任なSNSでの誹謗中傷につながっているのではないか、というすべての人が実は心の内に秘めて持っている闇のような心情も映画は明らかにしたかったのではないか、と思いました。

みかん農家で働く一見派手めの印象の女性が、行方不明の少女のビラ配りに自分も妊婦で大変なのに参加してくれるシーンは女性がやさしく善意のある人だとわかるいいシーンだと思えます。
しかし、それをいいシーンだと思うこととは、映画を観ていた自分も女性を最初の見た目の先入観で「そんな善意の行動などしない人だ」と思っていた、そんな偏見を持っていたことの裏返しなのだと気づきハッとしました。

そんなSNSという無責任な情報が飛びかう現代ゆえに社会的信頼が期待されているテレビ局の描写はあえてきびしく描かれていて、実は同じ情報の発信者としての作り手の苛立ちながらも叱咤し自浄作用を求める、ある種の仲間意識も感じられました。

夫婦の物語はいつの間にか2年が経ち、人々の中では出来事は風化していきますが、二人はいつまでも美羽がいなくなった「その時」から動けないでいます。
二人の"非日常"はいつしか"日常"に変わっています。
これは人にとってとても残酷なことのように思えました。

そしてこの映画は、娘が行方不明になった夫婦に代表される、誰にも頼ることができない苦しみを持った人たち、しかも信用できる人や組織、機関などどこにも見当たらない、そんなどこか漠然とした不安に支配されている現代の日本の社会の縮図のようにも見えてきました。
個人的に映画のA面とB面をつなぐ社会的テーマとはこれではないか?と考えました。

一方、沙緒里の弟の圭吾も実は同じ苦しみを抱えたまま生きています。
しかもそれをうまく伝えることができないもどかしさが続きます。
それゆえに、沙緒里と圭吾が互いの風化など絶対しない、深い苦しみを互いに理解し合う車の中でのシーンは印象的でした。
美羽の行方不明の原因として圭吾に対しても自責の念と同じくらいの激しい怒りを持っていた沙緒里が、圭吾の過去のトラウマを知り彼の自責の念の深さに近づいていきます。
カーラジオから流れてくるのはKPOPアイドルの歌のようでした。
沙緒里が行っていたライブがKPOPアイドルでは?と思えるシーンがいくつかあったのですが、流れてくるKPOPミュージックが圭吾の自責の思いと沙緒里自身の悔いても悔やみきれない自責の念がシンクロする姿を象徴的に描いているように思いました。
予想ですが、沙緒里は美羽の行方不明後KPOPミュージックをすべてシャットアウトしてきたのではないか?と思いました。
沙緒里にとってKPOPミュージックが深い自責の念を呼び起こすものであろうことを考えると、そんな事実も想像することができました。
またとても深刻な話をしているときに限って明るい曲が流れてくることは日常生活でよくあることのように思いますが、このシーンはそんな日常的な心情とは不釣り合いな現象と、ライブが象徴する沙緒里の親としての後悔と苦悩をわかりやすく描写しているように思いました。

終盤、美羽の壁の落書きに刺す虹の中で美羽の頭をさする沙緒里、別の少女のことで喜ぶ沙緒里の姿に思わず涙する豊のシーンには泣いてしまいました。

映画での夫婦のドラマは一応の完結を見ます。
ラストの沙緒里の表情をどう見るのか?
"夫婦が前に進んでいく"ということとも考えられるかもしれませんが、それは沙緒里が美羽を諦めたことと意味することになると思えました。
そう考えると沙緒里と豊は、残酷ですが、まだ美羽がいなくなった「その時」から動いてはいない、おそらく「その時」から動けないままこれからの人生を生きていく無間地獄が続いて行くのだと個人的には思いました。

この完結には、同じく子どもの行方不明に苦しむ親を描いたクリント・イーストウッド監督の『チェンジリング』が思い出され、その表現からの想像もしてみました。
『チェンジリング』では、本当にかすかでも希望を持ち続ける母親の姿が力強く(本当は表向きだけだったのかもしれませんが)描かれていました。
この映画の夫婦にはそんな力強さはありませんが、「その時」から動くことなどできない残酷な現実の中でも美羽が戻ってくるというかすかな希望を持ち続ける毎日が待っていることが表現されているように思いました。
沙緒里たち夫婦が一生こんな複雑で残酷な感情とともに生きていくのか、と思うとやはり胸が締め付けられました。

小さな善意が注がれる事実を"救済"と考えるか否かは悩みました。
この夫婦の将来を考えると、小さな善意を"救済"あるいは"癒し"という大げさない言葉で表現し、すべてが解決したかのように考えるのには違和感があります。
しかしこの夫婦への小さな善意が、どのようなかたちかは別として注がれることの意味は、むしろ善意を注ぐ側にとって大切な感情のように思えましたし、この映画自体も夫婦を主体的に描きながらもその周りの人たちが小さな善意を注いでいくことへの期待感を描いた作品のように思えています。

余談ですが、この映画を端緒に地震や自然災害という誰も恨むことのできない、そんな被災した人などの中にも「その時」から動けない、時間が止まってしまっている、それでもなんとか生きている人たちの現実にも思いを馳せました。

余談と言いつつそれを含めてまとめに入りますが、この映画は様々な状況の中でその人にとっての「その時」から動けない、この夫婦が代表するそんな人生を生きているいろいろな境遇の人たちに、何もできないことはわかった上でそれでも少しだけやさしい視線を送ること、小さな善意を注ぐことを観客や社会全体にささやかでも期待した映画だと思いました。
デッカード

デッカード