デッカード

ほかげのデッカードのネタバレレビュー・内容・結末

ほかげ(2023年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

※2,200字になりました。



戦後間もない日本を生きる人々の、消すことのできない戦争の記憶を描く。

映画の登場人物たちには名前がありません。
森山未來が演じるテキ屋の男が物語の必然性でかろうじて自身の名前を告げますが、それ以外はみんな名無しです。
このことから、この映画が戦後間もなくを生きた名もなきすべての人々の物語であることがうかがえます。

映画は居酒屋の女と戦災孤児の少年が出会うことから始まります。

前半は女と少年がいる居酒屋だけのワンシチュエーションで、そこに復員兵が現れ3人で擬似家族のような生活を始めます。
3人とも表情はどこか冷たく毎晩悪夢にうなされていて、それぞれがどんな恐ろしく残酷な体験をしてきたのかが具体的な描写はありませんが匂わされます。

居酒屋のワン・シチュエーションだけで物語が進んで行くのかと思っていたら、後半になり突然少年とテキ屋の男との旅の物語に転換することには戸惑いました。
しかし、居酒屋のシークエンスで女と少年の姿から空襲の地獄絵図を描いた上で、後半で少年が観客の目となって戦場で行われた理不尽な出来事を知ることで、観客自身が"日本人にとっての太平洋戦争"の全体像に近づく構成は理解しやすいと思いました。
少年はその旅によって居酒屋で豹変してしまい追い出された元教師の復員兵の戦地での記憶を察することができるようになりますが、観客も少年と同じ体験をしていくことになります。

テキ屋の男が、戦地では理不尽な命令ばかりをして部下たちを死なせたのに自分は無事に日本に戻り戦地での出来事を過去の記憶として割り切ってのうのうと暮らしている元上官に復讐する物語は痛々しかった。親の世代で起こった戦争に多少なりとも人生を変えられた自分個人としてもムカムカとした感情になりました。
上官の理不尽な命令で不本意に捕虜を銃剣で突き殺したり、捕虜を日本刀の試し切りにしたりした事実はたくさんの人が知るところです。しかし戦後理不尽な命令をした上官は裁かれることは皆無でなないにしろ少なく、不本意に捕虜を殺した下級の兵隊がBC級戦犯として処刑された事実も忘れることはできません。
また「生きて虜囚の辱めを受けず」と唱え戦地での兵隊の玉砕は当たり前で、沖縄では民間人さえ玉砕を強いられました。(このあたりについては、岡本喜八監督の『激動の昭和史 沖縄決戦』がテキストとしてはおすすめできると思います)
戦争中、国民を軍国教育や軍国社会の仕組み、その上都合のいい嘘で残酷な戦争へと駆り立てて終戦のその日まで「一億総玉砕」を標榜しながら、戦後はGHQにこびへつらって戦後の日本ではむしろ有力者になった人物たちの顔が、テキ屋の男に復讐される上官に被るような気がしました。

PTSDという言葉が広く使われるようになったのは、アメリカのベトナム戦争復員兵の心的外傷が顕在化したあたりからだったように思うのですが、まだそんな言葉などなかった戦後すぐの日本でPTSDによって座敷牢に監禁されている男性が描かれているのも記憶に残ります。
映画の登場人物すべてがPTSDに苦しんでいて情緒は不安定で、それゆえ描写がホラー映画のようになり果たしてこれは現実の出来事なのだろうか?とさえ思えてしまう場面がいくつもありました。
夫と子どもを失った居酒屋の女が少年に母性を垣間見せやさしく接するシーンと彼女が別人のように変わるシーンの積み重ねは、戦争体験によるPTSDが引き起こす心理的な不安定さがホラー映画に匹敵するほどの人間心理の恐怖の裏付けとして表現されていました。

少年は女の言うとおりに働いて生きる道に踏み出していきますが、果たしてその後も働きちゃんとした人生を生きていけたのかは映画ではわかりません。
私が学生だった当時は、新宿高架下で東西を結ぶ殺風景な通路には傷痍軍人の人がアコーディオンを弾きながらお金ももらっていましたし、今でいうホームレスと呼ばれる人たちの中には戦災孤児だった人もたくさんいただろうと思います。
まだ戦争の匂いが漂っていた当時とは完全に様変わりした今の現代的な街の姿は、いつの時点かでそんな人たちを切り捨て記憶の片隅から追いやって、戦争を過去の歴史として片付けてしまったきれいごとだけがあるようにも思えます。
塚本晋也監督がこの闇市の映画を作るにあたって、自身の原体験として私と同じものを見たことに触れているのは興味深かったです。

すでに各方面から絶賛されている少年役の塚尾桜雅ですが、特に前半の居酒屋のシークエンスで見せる目の輝きのない演技にはゾッとしました。
その目には恐ろしいものを見た人間だけが宿す光を失った絶望感があり、今の子役のすごさを感じるというより「この子は実生活で何かあったのではないか?」と心配にすらなりました。
大人の俳優もみんな好演なのですが、"演じる"というレベルを超えこの時代を象徴するかのような少年の光を失った目は、この映画全体を象徴するもので強く記憶に残るものでした。

2023年は、太平洋戦争を描いた記憶に残る映画が日本だけでなくアメリカでも公開された年でした。
「戦争の記憶」と一口に言っても身近に体験した人がいないとわからないことだと思いますが、少なくともほんの100年も経っていない過去に日本がアメリカと戦争をしてボロボロになった事実だけは忘れてはいけないように思いました。
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