プリオ

ミッシングのプリオのレビュー・感想・評価

ミッシング(2024年製作の映画)
4.5
役者として一皮剥けたい石原さとみの気概に賭けた鬼才吉田恵輔が贈る激重映画。

その重さは、これまでの吉田恵輔作品の中でも一二を争うもので、個人的に涙も出ない程にキツかった。

一人の人間の精神崩壊物語あるいはキ○ガイになってしまう過程を追ったドキュメンタリーとも言えると思う。

また、こんなにも終わってほしくないと思う映画も久々だった。でもそれは決して楽しくて面白いからという理由ではなく、「ここで終わったら耐え切れない!」という光にすがるような気持ちからくるものだ。希望が見えてこない絶望的な展開。これはおそらく監督は意図してやっていると思われるが、本来早く終わって欲しいと願うであろう重たい映画を、ここまで終わってほしくないと思わせるのは、ある意味凄いなと思った。

また、ここまで物語に引き込まれる理由としては、吉田恵輔という監督であり作家が極めて容赦なく油断できない人物であることを知っているからに他ならない。

過去作「ヒメアノ〜ル」や「神は見返りを求める」では前半と後半での大胆なジャンルチェンジ、「さんかく」や「空白」では普段意識しない人間の醜い部分をこれでもかと見せてくれた。

そして多くの吉田恵輔作品に共通して描かれている要素としてあるのが、どうしようもない現実に対する"折り合いのつけれなさ"だろう。

「ヒメアノ〜ル」は過去のイジメと折り合いをつけることができなかった殺人鬼が暴れ回る映画だった。
「神は見返りを求める」は恩を仇で返すような女と折り合いをつけることができず狂気に走るおじさんの映画だった。
「さんかく」では少女に恋心を抱く自分のキモさとの折り合いのつけれなさ。
「空白」では失った命に対して折り合いをつけることができない各々の葛藤を丁寧に描いていた。

今作も、その"折り合いのつけれなさ"をこれでもかと見せられる作品だったが、良いか悪いかさらに酷いのが、子供が見つかる可能性がゼロではないという"希望"が残されている点にある。

喪失を抱えた者が折り合いをつけることができず、いや許されず、ただひたすらにもがき苦しむ姿は、見ていてもなかなかにしんどいものがあった。

本来こういった胸糞映画は登場人物に感情移入させて観客にカタルシスを与えるのが一般的だが、それもあまり感じないから尚更地獄だった。

その理由としては、失踪事件の日の描写がないことや、事件の3ヶ月後から映画が始まることが起因しているだろう。その余白により観客は簡単には感情移入できないようになっているのだ。観客は真相や登場人物像を想像してみるしかないのだ。

そして、この想像する感覚は、僕らが事件や事故のニュースを見る時に勝手に想像して決めつける感覚とも重なるところがあると思う。

しかし、今作を見て、安易な想像や決めつけを僕らは反省することになるだろう。

なぜなら、想像した先に待っていたのは、想像絶する地獄なのだったからー。


「人はこうやっておかしくなるのか・・・」という大きな学びのある映画でもあった。

現実、街を歩いていても「チョットおかしいな・・・」と思う人と出会すことがあると思う。近づきたくない人、奇声を発したり挙動が変な人。そういった人たちに対して、僕らが投げかける視線といえば、軽蔑的なものが大半だろう。あるいは不信感にに満ちたもの、蔑み笑う者もいるかもしれない。

でも、この作品を見て僕は、思いやりの眼差しを向けることもできるのかもと思った。

吉田恵輔の映画には、俗に言う"おかしい人"が出てくることが多いんだが、今作はその"おかしい人"になっていく過程を描いた映画とも言えると思う。そしてそこから我々は、そんな人たちに対して思いやりの心を持つことや「優しさを持とうよ」というメッセージを受け取ることができるんだと思う。

人は想像できないものに対して恐怖や嫌悪を抱く生き物であり、だからこそ対象を排除しようとする。でもこの映画を見終わると、そんな対象者の背景を少し想像できるようになるし、その結果僕らの感情や思考も変わるんだと思う。

人に優しくなれる映画だと思いますね。


また、これは吉田恵輔監督の特筆すべき点だが、彼の作品には"不謹慎だけど笑っちゃう"部分がある。人間のいや〜な部分を描いたり胸糞悪い展開の作品が多いわけだが、その中でもどうしても込み上げてくる笑いが監督の作品には存在する。

それは恐ろしいニュースも度が過ぎると、怖いというより笑ってしまう感覚にも近いだろう。

映画でも、
そことそこを掛け合わすか?
そんな展開に持っていくか?
という普通思いつかないようなイジワルな事を吉田恵輔はする訳だが、その結果恐怖を通り越して笑いに変化する現象が僕の中では起きていたりする。

また、「人が一生懸命になって空回りしている姿って、本人からしたら切実なんだけど、第三者から見たら滑稽」という吉田監督の自身の映画における笑いについての発言があるが、本当にお笑いを理解してるんだなと感じる。また監督は「葬式の時に急におかしくなるニュアンスに近い」とも言っていたが、まさに吉田恵輔の映画はそんな笑いで溢れているのだ。

先程話した"おかしい人"も監督視点で言うと、ホラーとして描くこともできるし、コメディとして描くこともできる。また観客視点で言うと、ホラーとして見ることもできるし、コメディとして見ることもできるのだ。

監督は確かに意地悪な視点を持ってはいるが、それが笑いに繋がっているのだろう。また、その根底には優しさが満ち溢れているように感じるのは僕だけだろうか・・・。


またここからは、そんな吉田恵輔に果敢に挑んだ石原さとみという人間についての話をしていきたい。正直、彼女なしでこの映画は語れないので。

石原さとみに抱く自分のイメージとしては、なんか『裏表ありそうな女』だった。キラキラニコニコして可愛い感じだが、なんかその裏に潜む圧倒的な自我を感じさせる女優さんという印象だった。

そう思ってしまう理由の一つに、僕は彼女の声があると思っている。

基本的に石原さとみの声は、高くて甘くて少しハスキー感じだ。ドラマ「失恋ショコラティエ」や「リッチマンプアウーマン」でもその可愛らしい声は存分に発揮していたし、正直嫌いな男はいなかったと思う。

でも、この後、僕は彼女の本当の声を知ることになる。

あれは確か石原さとみが世界旅行をする番組だったと思うが、その時のインタビューに受け答えする彼女の声の低さに驚いたのだ。ドラマで聞いていた高い声とのギャップもあり、男みたいに低いなと思ってしまった。でもこっちが地声であり、石原さとみの素であることは、彼女のリラックスした表情を見ても明らかだった。

また、こうも思った。本来声が低いのに関わらず、高い声を出すような生活を送っていると、それこそ裏表のある性格が形作られるんじゃないかと。環境が人を作るとは言ったもので、自分の体の特性が性格に与える影響は少なからずあるのではないかと。

またその旅行番組に限らず彼女が出るバラエティ番組をいくつか見て感じたのは、その喋り方、表情、発言からくる圧倒的な自我である。自分の意思意見をしっかり持っていて、かつそれをしっかり言える人なんだと思った。

石原さとみは、地位名声も手にした圧倒的美貌を兼ね備えた国民的女優さんで、今や結婚もして子供もいる一人のお母さんでもある。また、その溢れるキラキラ感や高い向上心は、自分のようなゴキブリ系男子からすると眩しくて迂闊には近づけないようなタイプである。吉田恵輔監督も石原さとみについて華があり過ぎるとか、港区臭がして苦手とか言っていたが、それにはすごく共感してしまうところだった。

しかし、そんな隙がない完璧な女優である石原さとみだったが、そんな彼女にも唯一足りないものがあったと思う。

それが"役者としての評価"ではなかろうか。

多くの映画やドラマに出演してきた石原さとみだが、何かしらの映画賞はほとんど獲ったことはない。演技に関しても、早口で喋ったり甲高い声を上げたり大袈裟な表情を見せる、俗に言う"うるさい演技"をする女優さんという印象で、正直演技派のイメージは全くなく、CM女優あるいはキャラ女優というレッテルをしっかりと貼らせてもらっていた。

でも、それはおそらく、石原さとみ自身も同じように感じていたことなんだと今になっては思う。

なぜなら、この映画に出たことがそのことを証明しているからだ。

以下は、そんな彼女の想いが分かる発言だ。

「私は自分に飽きていて、自分のことがつまらなくて、このままではいけない、吉田さんだったら私を変えてくれるかもしれないとすがるような思いでした。その夢が叶って、母親となった身で沙緒里を演じられたことは、自分が崩壊しそうなぐらい苦しかったけれど、泣けてくるぐらい幸せでした」

映画を見終わってからこの言葉を読むと、正直石原さとみの気概に泣けてきてしまう自分もいる。

正直、石原さとみは演技は下手というか、それ程器用なタイプではないのかもしれない。どうしても演技感が抜けず、大げさになってしまうタイプなのかもしれない。そこには、努力ではどうしようもできない感性や才能という高い壁があるのかもしれない。

でも、だからこそ、この映画では、そんな彼女のぶっ壊れた演技を見ることができる。

そう、この映画で、石原さとみは、モンスターになったのだ。
いや、モンスターにならざるえなかった。
きっと、モンスターになることで、この映画を乗り切ったのだろう。

もはや演技の上手い下手とかではなく、石原さとみのパッションに圧倒される映画になっている。初めて見せる石原さとみの顔の数々、鼻水を垂らし失禁までする始末、もう素っ裸で暴れ回っている感じでそれはもはやホラーだった。(とあるシーンの顔が強烈すぎて頭から離れない)。

さらに産後一発目の仕事が今作だというから、この人は本当に「ヤバいな」と思うと同時に、「大丈夫だったのか?」と心配になる程だ。

本来、石原さとみは子育てに専念し、芸能界から姿を消してよかったはずだ。ご主人も一般人とはいえ相当な金持ちのようだし、何不自由なく暮らしていけることだと思う。いや、働くにしても、ドラマやCMを中心に現状維持的な活動する道もあったはずである。

でも、石原さとみは、そうしなかった。

彼女は、果敢に挑戦した。

それは、役者としての自信を損ないかねないものだ。

私にはできないのかもしれない。その感性はないのかもしれない。演技の才能はないのかもしれない・・・。

きっとそういった多くの不安を抱えながらも、挑んだんだと思う。

自分に足りないものを理解し、理解した上で、そこを埋めに行こうとする石原さとみの飽くなき向上心。あるいは、変化しようと、新しい自分になろうとする心意気。

いやー、心打たれて仕方がないです。

本当にお疲れ様でした。


今作は、行方不明になった娘を探す母親の物語であるが、娘との回想シーンはほぼなかったし、娘が消えた日のシーンも一切描かなかったのが印象的だった。その心意気は率直に潔いなとも思ったし、そこに吉田恵輔の今作に対する姿勢も現れているような気もする。

おそらく監督は「あの時何があったのか?」、「誰が犯人なのか?」というミステリー映画にはしたくなかったのだろう。もちろんそういったテイストも多少入ってはいるが(今作で出てくる「メディア」がその役割をなす)、物語を推進させる程の役割は担ってはないだろう。

今作において推進力となっているのは、母の荒れ狂う心である。我々は"折り合いのつけれなさ"からくる自責と他責の狭間で苦しむ母が、どう変化してどう折り合いをつけるか、それを見届けたいから最後まで見るのである。

劇中でこんなセリフがある。

「どっちかに決めてよ。責めるのか味方でいてくれるのか」

これは沙織里が夫に放つ言葉であるが、ここに彼女の自責に苦しむ心がよく現れていると思う。

人はどうしようもない折り合いのつけれなさから、自責に駆られることがある。また自罰欲求から、もっと自分を過酷で残酷な状況に身を置きに行ってしまうこともある。沙織里が「分かってるよ。でも見ちゃうんだよ!」と言いながらも、SNSの誹謗中傷を見てしまうのもその類だろう。

その一方で、他責により周囲に怒りをぶつけてしまうこともある。自分だけの責任だと思いたくないことから、他者を攻撃するのだ。

また、自分と同じ感情を抱いてほしいと、あるいは、自分と同じ温度を抱いてほしいと、他者に要求するようになる。沙織里がどこか冷静な夫に対して自分と同じくらいの苦しんだり焦って欲しいし、同じ温度感で娘を探して欲しいと要求するのも、自分一人では娘が消えた事実を抱えきれないからである。

この自分と同じ温度感を周囲に求めるのは、人間の厄介な部分ではあるし、その要求自体は反射的に拒絶したくなることもあると思う。

でも、そんな人間の弱くて滑稽な部分を、愛しむこともできるよなと、映画を見終わってからだと思う。

極論、人は他人の気持ちは分からない。その人の感情は実際その人にしか分からないし、実質想像したり感じたりすることでしか把握はできないものだ。また人はどれほど人に寄り添えるかは甚だ疑わしいところでもある。なぜなら人は本質的に他人に対して不寛容なところがあるから・・・。

だから、だからこそ、せめて優しくありたいと思った。


現代、SNSの発達により何が本当かわからない嘘で溢れてるような世界だ。もはや体感としては、本当か嘘かはさほど重要なことではなくなってきているようにも感じたりする。大事なのは楽しめるかどうか、あるいは面白いかどうか。『嘘を楽しめるかどうか』だ。その姿勢自体は、映画や本と触れることとも繋がる部分ではあるだろう。でも、SNSとは決定的な違いが一つあると思っている。

それは、『人を攻撃することで成り立つ快楽』の有無である。

映画や本と触れることは直接的に相手を攻撃することには繋がらない。
しかし、SNSは違う。
それは一般的な対話と同じ、いやそれ以上に、相手を傷つける可能性のあるものだ。

これはSNSに限らずだが、その楽しさや面白さの類ひいては快楽は、他人を攻撃することで成り立つようではやはりダメだと思う。これは理想論なのかもしれないが、人の不幸の上で成り立つような幸せはない方がいいに決まっている。

でも、相手が傷つかどうかは、その人の受け取り方に拠る所も大きいのも事実だろう。自分が意図した発言とは違う受け取り方をされてしまうことはSNSに限らずコミュニケーションにおいてはよくあることだ。でもそれはコミュニケーションの難しさであると同時に、その食い違いを擦り合わせていく工程は、コミュニケーションの楽しさであり醍醐味でもあるように思ったりする。

言いたいことも言えなくなる世界は窮屈だ。自分の考えや感情に素直に言葉を発するのは基本的には賛成だ。自分の発言や相手の受け取り方を過剰に気にするのもヘルシーではないだろうし、そんなことばかり気にしていると、自然なコミュニケーションを取るのも難しくなるだろう。

コミュニケーションを丁寧に行う機会や時間がないこととも関係があるような気がする。現代人は、密で深い対話をする時間がない程に忙しいし、そんな関係性を築ける程の言葉を持っていないという問題もあるような気がする。浅いコミュニケーションの蓄積は、どこか満たされない気持ちを人々に植え付けることになりかねないと思ったりする。

いろんな媒体で、いろんな人と繋がれるようになった現代、逆にコミュニケーションが気薄になってしまったようにも感じる。

気薄な世界だと『人』を感じることができない分、人は攻撃的になるのだろう。

だから、大事なのは、ちゃんと『人』を感じること。

想像すること。

他者に対して思いやりを持つこと。

モラルやルールとか、そんな言葉は嫌いだが、まずは各々が『人』と『人』のコミュニケーションを思い出してみることが大事なのかもしれない。


最後に、今作は多くの点で「空白」と共通している。

それもそのはずで、監督曰く元々今作は「空白」から派生した物語らしく、人を轢いたドライバーのキャラ像から着想を得たらしい。また書き進めていく中で、主人公をドライバーから今作の主人公に当たる石原さとみ演じる沙織里に切り替えたとも言っていた(この主人公だと思っていた奴が脇役になり、脇役が主人公になること自体は吉田恵輔の作品ではよくあることらしく、監督の作品におけるキャラの造形の深さが伺える)。



<吉田恵輔監督の映画の特徴>
・性格のきつい女
・ロリコン
・失禁
・奇声
・ユニークな顔の役者
・印象的なラストカット
・細かく揺れるカメラ
・けつの穴を見せる、恥部自慢
・不謹慎な笑い
・明日は我が身
・ヤバい人間をコメディひいてはホラーで描く

<印象に残ったセリフ>
・「深呼吸」
落ち着くのは相手なのに、落ち着いてと言われる始末。
その後に、ブツブツと文句を言う中村倫也がキモ怖かった。

・「温度が違う」
違う温度に腹を立てる。同じ温度を感じたい、と思ってしまう人間の性。

・「事実が面白い」
人の不幸は蜜の味。

・「嘘にすがる」
折り合いのつけれなさから、嘘にすがる。
嘘が生きがい。

・「お前すごいよ」
人の幸せに涙する。人のためにしたことに涙できたら、自分も救われる。

・以下吉田恵輔の言葉
「基本的に自分が理解できないことに対して軽蔑するわけだけど、その理解できないことを自分がしないとは限らない」

「辛いことや耐えられないことがあったときに、人はいかに折り合いをつけるのか」

「前を向こうとすれば、視野が広く持てるようになって、光があることの美しさにも気づける」

「周りを見る余裕がないと、他者への共感力や想像力が欠落していく。自分が辛くても誰かのために泣けたり人の幸せを願える人が、もしかしたら世界を変えられる力があるんじゃないかと」

「死にたいぐらい追い込まれたときに、何か「すがる」先があればいいけど、そこにも難しさがあると思うんです。たとえば圭吾は自分がついた嘘にすがる」

「何かにすがっている人がいて、それがたとえ間違っていたとしても、否定したらその人から生きる拠り所を奪ってしまうことになるわけです。すがるってどういうことなのか、明確な答えはない。ただ、やっぱり人だなと思う。人との関係は難しんだけど、人を救うのも人でしかないよなと思っちゃうと、人とのつながりみたいなものをちょっとね、大事にしないとなと思うんですよね」


<追記>

・どう光を見つけるか
地獄の中でも希望がある
暗闇の中に光を見つける
誰かを救うことが自分を救うことになる
他者ではなく自分が救う→自発性

・石原さとみの横顔と正面顔
印象変化
プリオ

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