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首のbluetokyoのレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
3.5
これはお蔵入りになってもやむなしか、と思える内容だな。もちろん、歴史映画としてだ。歴史ものというよりは風雲たけし城を思い出してしまう。北野武監督の映画に出てくる、暴力のリアリズムと脱力するコントギャグ、「首」でのコントギャグが風雲たけし城であるなら、暴力のリアリズムは、頻繁に出てくる首切断のシーンである。これって史実として本当なの? と思ってしまうのだが、たしか、こんな話がある。織田信長が南蛮の宣教師を連れて、なんかの説明や案内をしているときのことだ。その宣教師をびっくりさせようと思ったのか、自分の権力を見せ付けようと思ったのか、突然、近くを通り掛かった荷物を運んでいる人の首を刀でスパッと斬り落としたのだ。織田信長は、やっぱ、ちょっとやばいやつなんだが、戦国武将がみな、こんな風な殺伐とした人間かどうかわからん。だが、暴力が身近だったのはたしかだろう。

この映画の世界には、関係性が3つ出てくる。1つは、凄惨な殺し合いを含む権力闘争の関係だ。まさに首を奪い合う関係。茂助は、首を奪うために仲間を平気で殺している。もう1つは、(同性しか出てこないが)性的な愛憎の関係。荒木村重、明智光秀、織田信長は愛憎関係に陥っている。最後は、仲間の関係。豊臣秀吉、秀長、黒田官兵衛の3人は仲間関係だ。あるいは、徳川家康と服部半蔵、明智光秀と斎藤利三なんかもそうだろう。

この映画の中で、仲間関係だけしか持っていないのが、豊臣秀吉と徳川家康なのである。逆に、仲間関係を持っていないのが、織田信長、茂助である。仲間関係から見れば、ドロドロの愛憎劇や凄惨な殺し合いは、まったく、ギャグにしか見えないことだろう。恥ずかしいだろうに、痛いだろうに、なにやってんだ、あいつらは、である。

ところが、実はそうではないのである。そうではないということが、判明してから、ストーリーが動き出すわけだ。織田信長は、成果さえ上げれば、跡目は継がせると日頃から宣言していた。なので、部下たちは、性的関係を結んだり、権力闘争を繰り広げたり、を励むわけである。だが、実は、跡目はすでに、息子の信忠になっていた。そればかりか、織田信長は、家来たちを、ハゲとかタヌキとか呼んでバカにしていたらしいのだ。織田信長にも仲間関係があったのだ。孤独な権力者ではなかった。

豊臣秀吉、明智光秀、荒木村重、徳川家康、その他は、もちろん織田信長の仲間ではないわけだ。とすると、織田信長の仲間関係以外の人間にとって、天下を取るのは、もはや、アンフェアな謀略しかなくなる。ここで、仲間関係しか持っていない豊臣秀吉と徳川家康が圧倒的に有利になってくる。仲間関係以外の人間に対してなら、アンフェアな騙し討ちや汚い謀略は平気でやり放題だからだ。

というわけで、豊臣秀吉(と徳川家康)は、本能寺の変で、荒木村重、織田信長、明智光秀を破滅させる。

もちろん、北野武監督は、歴史の謎解きをしたいわけではない。ここで、曽呂利新左衛門の登場である。豊臣秀吉の配下になる。では、曽呂利新左衛門は、豊臣秀吉の仲間なのだろうか。そうではないのである。曽呂利新左衛門は、得意なのは何かと問われ、人を笑わかせる話芸だと答えた。コミュニケーションを仲間意識を高めるためのツールではなく、芸であると答えた時点で、豊臣秀吉にとって仲間ではないのである。だから、こいつは消えてもらおう、ということになる。その通り、曽呂利新左衛門は、結局殺されてしまう。

仲間はいいもんだが、仲間以外に対しては冷酷なのである。仲間内に閉じこもっていると、自分の手を血で汚していることがわからないのだ。そんなことを説教めいて説明しているわけではないだろうけど、まあ、そういったところではないだろうか。
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