ラグナロクの足音

PERFECT DAYSのラグナロクの足音のレビュー・感想・評価

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
3.6
「スカイツリーと呼ばれる人工巨木を中心に据えた日の出るキャピタリズムギャラクシー浅草にて、銀河の界隈に取り残された精霊=自然=かつての人間(主人公)が、なす術なくシャンタルアケルマン的に繰り返される反復(終わりなき日常)の中になんとか希望(一瞬の光=木漏れ日=映画)を見出そうとフォークナ片手にZENする話」大体そんな感じ。笑 まさかヴェンダースの目に映る"東京"を本人がいる空間で拝めるとは夢にも思わなかった(というかロケハンの段階で今の砂漠化した東京を見て最早このタイミングしか無かったんだと推測する)。ダニエルシュミット、侯孝賢、アッバスキアロスタミ、ソフィアコッポラ、ミシェルゴンドリー、ポンジュノと挙げればキリがない程、映画史に於いてこの形の無い街は名だたる世界の巨匠たちがその片鱗をカメラで捉えようと果敢に取り組んできたわけだが(そもそも世界で最も映画撮影がしにくい都市だ)、その殆どは今年生誕120周年を迎えた"オズ"という亡霊に収斂してしまうことは言わずもがなである(ハリウッド映画はそれ以前の話なので論外)本作もやはり小津が描いた"東京"をヴェンダース仕立ての色眼鏡を用いて擦り直す形で展開される。監督は舞台挨拶で「私はドイツ人だが、魂は日本人だと思ってこれまで生きてきた。この映画を撮った人間が果たして外国人だと信じられるかどうか、鑑賞後に聞いてみたい」と述べていた。しかし残念ながら自分の結論(感想)は彼の期待とは裏腹に「正真正銘、外部の視座から撮られた映画である」と言わざるおえない。ある意味で失敗しているとも言えるだろう。ただそれは、プロでもコンでもなく、そもそも"東京"という空間/概念を自分らが全く理解していないからに他ならならず(元から形がない都市だという歴史的な見識は語れば埒がないので割愛するが)少なくとも本作における東京都民への眼差し、カメラが切り取る風景描写(とりわけ照明)台詞は自分ら日本人が内から抱いているイメージとは別次元にあるのは間違いない。それどころか、寧ろ自分が長らく目に映し込んできた"東京"よりも更に真実味を帯びた形でリアルが映ってしまっていることは鑑賞者の誰しもが感じたことであろうと思う。極めて無垢な観察者の装いをした画がスクリーンの中に溢れていた("オズトウキョウ"の枠組みから脱却できていたかどうかはまた別の話であるが)
そもそもニュージャーマン・シネマを代表する映画作家ヴェンダースといえば『都会のアリス』『回り道』『さすらい』そして『パリテキサス』と、描いてきたことは一貫して、異世界への旅を通して(本作では持たざる地から持つ地への旅)表象する人間の実存に対する問いだ。彼が描く主人公は常に孤独で寄る辺なく、ただ雲のように世界のなかを彷徨い続ける。しかし流れゆく背景は、決して心象風景などではなく、その人物の内面とは切り離された「異質なもの」であり、その異質性から人物の孤独な生い立ちを感じ取ってはじめて「現れる」ものだ。ヴェンダース作品において風景の「異質性」は、人間の孤独を想起させる装置であり、それはまるで絵はがきのような「うすっぺらさ」も両義的に表すことができる所以でもある。今回の作品も全くに例外ではなく、"東京"を異質なもの(他者)として扱うことで清掃員の主人公の孤独さ(今は亡き失われた日本人の日常)を際立たせていたという点で、ヴェンダースの手腕を生で体感できたことが本当に嬉しい。改めて勉強になった。
そのほか、脚本プロットの構成について、画面比4:3の効果やフィルム調のカラコレ、止めることが出来ない加速主義社会を痛烈に皮肉るメタファーとしてトイレが使われていたことや、楽曲の選別(ルーリードはいいとして流石にHouse of the Rising Sunの連発は下品だったか)演者それぞれの演出について(特に『アメリカの友人』まんまの正面からの車内ショットや、『君の名前で僕を呼んで』『ベネディクション』『マイケル・クレイトン』的な役所広司の喜怒哀楽込めたラストカットにはかなりグッときた)等はまたキリがないので別の機会に。
ラグナロクの足音

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