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PERFECT DAYSのambiorixのレビュー・感想・評価

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
4.6
「物語なんか必要ないさ 人物と人物との空間で映画は作られる」
ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受賞した『ことの次第』(1982)のクライマックスで、ドイツ人の映画監督が娯楽映画至上主義のアメリカ人プロデューサーに言い放った右の言葉は、ヴィム・ヴェンダース映画の本質をこの上なく的確に言い表しています。明確なストーリーやプロットを持たず、常に行き当たりばったりで最終的な目標もない。そして、そこにはハリウッド映画につきもののわかりやすいカタルシスが存在しない。たとえば、俺はこの人が撮った『パリ、テキサス』(1984)をずっとオールタイムベスト映画だと言い続けていますが、ためしに話の筋を説明してみろ、と言われると困ってしまう。ライ・クーダーが作ったブラインド・ウィリー・ジョンソン風の劇伴をバックに主人公が砂漠を歩くファーストシーンや、主人公と息子が道路を挟んで歩くシーン、そして風俗のマジックミラー越しに嫁と会話する感動のラストなどなど、印象的な場面はたくさんあるのですが、しっかりした筋のある映画ではない。『パリ、テキサス』をなぜ面白いと感じるのかをいまだに説明できずにいます。しかし、そのことを逆にいうなら、人と人を、あるいは人とオブジェクトをただ並べて撮っているだけの映像群をひとつの劇映画としてなんなく成立させてしまう。まさにこれこそが映画監督ヴィム・ヴェンダース最大のマジックと言えるのではないでしょうか。

・ヴェンダース過大評価されすぎ問題
けれども同時に、みんな「ヴェンダースのことを持ち上げすぎなんじゃないの?」とも思う。ヴィム・ヴェンダースの50年以上にわたるキャリアは、ある作品を境にはっきり全盛期と低迷期のふたつに分けることができます。そこで基準点になってくるのがクソ映画ファンにはおなじみ、1991年に作った『夢の涯てまでも』という作品。当時、日本のNHKや電通やソニーから30億円もの大金をかき集めて製作するも、歴史的な大コケをかまし、あの淀川長治に「こんなの観るぐらいなら死んだ方がマシ」とまで言わしめた史上最低のロードムービーでした。ヴェンダースはこの映画の直前に『ことの次第』や『パリ、テキサス』、『ベルリン・天使の詩』(1987)などの世界的に評価された作品を撮りまくって絶頂期にあったのですが、1本の失敗によって歯車が狂ってしまいます。まあ、本作の前作にあたる『世界の涯ての鼓動』(2017)にしたって、旅先で偶然出会ってエッチしただけの薄っぺらい男女カップルが離ればなれになり、片方はMI6のスパイとしてソマリアにおもむき、もう片方は海洋学者として深海の調査に出かけるのですが、両人がのべつに「会いたいよお」「くるちいよお」かなんか言い続けて本業をしくじりまくる、とかいうひと昔前のJ-POPみたいなしょーもない映画でしたからね。なので、なんだろうな、本作『PERFECT DAYS』(2023)に関しては、「昔はすごかったけど今は落ち目のおじいちゃんが気楽に作った映画」ぐらいのスタンスで見るのがよいのではないかと思います。

・延々と繰り返されるルーティン
役所広司演じる主人公の平山(監督が敬愛する小津安二郎の映画によく出てくる苗字でもある)は、往来を掃除する箒のサッサッサッという音で目覚め、起き上がって布団をたたみ、台所で髭を剃って顔を洗い、公園で拾ってきた植物に霧吹きでもって水をやり、整然と並べられた鍵や腕時計を身につけ、玄関先で空を見て微笑み、アパートの目の前にある自動販売機で缶コーヒーを買って車に乗り込み、車内ではカセットテープに入った60〜70年代の洋楽を聴きながら職場に向かいます。平山の仕事は、渋谷区の各地に点在する奇抜なデザイン(明らかに隈研吾のものとわかるダッセェやつもある)の公衆トイレを掃除することでした。仕事を終えた彼は、行きつけの銭湯の一番風呂に入り、それが終わると今度は浅草の地下街にある飲み屋で食事をとり、自宅に帰って眠くなるまで本を読む…という、決まった行動パターンを延々と繰り返しています。いま思えば今年はポール・シュレイダーやデヴィッド・フィンチャーの最新作をはじめ、ルーティンに関する映画をよく見たなあと感じるのですが、あれらのルーティン描写が主人公の強迫観念症的な性質や異常性をあぶり出すために存在していたのと比べると、本作は趣を異にします。ルーティンをそのままルーティンとして提示するというか、描き方としてはルーティン映画の元祖ともいえるシャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975)あたりが近いのではないでしょうか。ヴェンダースはひたすらに繰り返される行動様式に対して何かしらの意味づけをしようとしておらないように感じる。平山の生き方をジャッジしないわけです。なので、この映画に対して「何がしたいのかよくわからなかった」「何も起こらない日常を描いているだけだった」という感覚を持つことは絶対的に正しい。答えがわかるように描いてないんだから。そして俺に言わせれば、「この映画がわからないこと」は幸せなことだと思うのです。これに関しては後述します。

・弱者男性の末路を描いた映画
で、ここからは完全に独断と偏見ですが、今後本作『PERFECT DAYS』に対して頻繁になされるであろう「ひとりぼっちの余生を自分なりに楽しむ初老の男性を描いた映画」みたいな見方には断固としてノーを叩きつけたい。そんなにポジティブな作品ではないと思うんですよね。ちなみに、平山がいったいどういう人間で、これまでどういう生き方をしてきたのか、ということは物語が進むにつれて少しずつ開示されていく仕組みになっています。彼はどうやらいいところのお坊ちゃんの家に生まれて、十分な教養もある人物だったらしいのだけれど、何かのきっかけで社会からドロップアウトし、いまに至っている。序盤の子連れの母親のエピソードを持ち出すまでもなく、50歳を過ぎたトイレの清掃員なんてのははっきり言って社会の底辺ですし、嫁や子供もいなければ仲の良い友達すらいないときている。要するに、演じているのが役所広司だから錯覚してしまうだけで、平山という人間はれっきとした「弱者男性」なわけです。なぜそんなことがわかるのかというと、親族全員と縁を切っていて、生涯独身が九分九厘確定しており、友達が誇張抜きにひとりもいない平山の合わせ鏡のような俺自身がまさに弱者男性だからです。この「弱者男性」という視点から映画を見てみると、平山の日常所作の持つ意味は一変します。彼が無口なのは単にシャイだからなのではなく、何か口を開くだけで相手から即座に嫌われてしまう弱者男性特有の経験の積み重ねからきたものなのかもしれない。平山が自宅(亀戸と思われる)からそこそこ離れた距離にある浅草の飲み屋に通う理由はなんなのか、という疑問に関しても、ひとりで気兼ねなく入れてかつ店員が過度に干渉してこないところがたまたまここしかなかったから、ってな答えを引き出すことができます。初めての店に入った瞬間に、店員や周りの客から一斉に「お前何しに来たの?」みたいな目で見られたことがある人には分かるのではないかと思います(ちなみに俺はこの映画を見た帰りに入ったラーメン屋でやられました)。飲み屋でもってプロ野球ファンの客がリモコンを取り合うやりとりを見た平山はおもわず微笑む。しかしあれは別にやりとりの内容が面白いから笑っているわけではない。普通の人たちが当然のようにやっているコミュニケーションに対する憧れと諦念の入り混じった哀しき微笑みなのだ。あとは、石川さゆり演じる飲み屋のママに振られたと思って勝手に落ち込んじゃうくだりやなんかもすげえ弱男っぽいんだよ…。

・アウトサイダー感覚
ヴェンダースの映画を見ていてもっとも顕著に感じるもののひとつが「外国コンプレックス」なんですよね。もちろん彼の作品を全て見たわけではないですが、ドイツ人の監督にもかかわらず、長編デビュー作の『夏の都市』(1970)でミュンヘンを舞台にして以降、ヴェンダースの映画はドイツを離れ、世界のあちらこちらを旅し始めます。それは、子供の頃にこじらせたアメリカかぶれの気質からくるものなのかもしれないし、母国で学問に失敗してパリに逃げた経験のせいなのかもしれない。あるいは、仏紙「ル・モンド」のインタビューで答えているように、ナチスドイツのしでかした所業を歴史修正しようとした元ナチ党員の教師の影響があるのかもしれない。冒頭に掲げた『ことの次第』の劇中で、主人公のドイツ人監督はこうも言っています。「俺には国も家もない」と。いずれにせよヴェンダースはドイツに背を向け(資本はドイツなのだけれど)、異国で映画を撮り始めるわけですが、そこで際立ってくるのが「よそ者の感覚」です。その国に住む人たちが見慣れた景色をアウトサイダーの視点でもって異化してみせること。その感覚がいかんなく発揮されたのが、80年代の東京にあったパチンコ屋や打ちっぱなし施設や食品サンプル工場を奇異の目で見つめたドキュメンタリー作品『東京画』(1988)でしょう。さらに、ヴェンダースの映画に出てくる主人公もそのほとんどがアウトサイダーです。挙げはじめるとキリがないので省略しますが(『ベルリン・天使の詩』の天使がその究極形)、いずれの作品においても、どこか他所からやってきて、他者と関係を取り結ぼうとするのだけれど、様々な障壁があってそれが妨げられてしまう登場人物を描いています。そう見てくると、本作『PERFECT DAYS』の平山もヴェンダース的主人公の系譜に位置付けられるよそ者と言っても過言ではないのではないでしょうか。社会から爪弾きにされた弱者男性という名のアウトサイダー。

・ラストシーンの意味
本編の終わり近く、ママの元夫であるモトヤマ(三浦友和)と平山が一緒にタバコを喫んだり影踏みをして遊ぶ場面は、本作で唯一と言ってもいい、平山が他者と積極的にコミュニケーションを取ろうとするシーンなんだけども、悲しいかなモトヤマは癌に侵されていて余命いくばくもない。平山はモトヤマの死を思うと同時に、やがて訪れる自身の死についても思いを馳せたはずです。いま思えば平山は、同じルーティンを何度も何度も繰り返すことによって人生と真摯に向き合うことから逃げ続けてきたように見える。ところが、姪の家出や同僚のタカシのバックレによって、これまでなんとか保ってきたバイオリズムが大きく崩れることになった。そこへもってきて、絶縁状態だった妹から老人ホームにいる父親の死が近いことを知らされる。身近な人に相次いで訪れる死の匂いを嗅ぎとった平山は間違いなくこう思ったはずです。「このままで本当にいいんだろうか?」と。ラストシーン、高速道路を走る車内にいる平山の顔を真っ正面から捉えたキャメラは、彼が微笑み、その微笑みが崩れて泣き顔に変わろうとするせめぎ合いの瞬間を映し出す。俺はここで完全にやられてしまった。平山は葛藤しているのだ。今まで通りのルーティンに埋没した人生か、あるいはルーティンをぶっ壊して始まる新しい人生か。「結局どちらを選んだの?」映画はその問いに答えない。しかし確実にひとつ言えるのは、本作を「何気ない日常の素晴らしさを肯定した作品」として受け取ってしまった人たちがこの上なく幸福だということ。なぜなら、弱者男性の生き様を見て虚しさをおぼえない人間は弱者ではないからです。けれどもそれで構わない。お前らはそのまま生きてくれ!
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