シミステツ

PERFECT DAYSのシミステツのネタバレレビュー・内容・結末

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

役所広司演じるトイレ清掃員の静かで淡々としたそれでいて美しい日々の暮らしを映し出したこころ温まる「日常ロードムービー」映画。

古びた木造アパートに住む平山は、朝、近所の箒を掃く音で目を覚まし、丁寧に布団を畳み、歯を磨き髭を剃る。植物に霧吹きをかけ、鍵やカメラを忍ばせて家を出る。家の外の自販機でBOSSのカフェオレを買い、カセットテープで好きな音楽をかけて仕事場へと出かける。

昼休みには神社の木漏れ日をカメラで撮影し、時折新しく芽吹いてきた紅葉の若木をいただく。仕事を終えると開店と同時に銭湯へと足を運び、夜は浅草駅の地下街の居酒屋で酎ハイを嗜む。

多くを求めない、何でもない、何気ない日々の中に、彼の新しい日常や些細な歓びがひそんでいる。モノに溢れた時代、欲望に溢れかえった時代。吾唯足知。目に見える、目の前の大切なものだけをそっと大切にする生き方にとても深く共感した。

清掃中の看板を蹴り倒すサラリーマン、迷子の息子を探していた母親の反応からも分かるように、職業に貴賤はないものの、きっと我々も一定無意識に「トイレ清掃員」となると差別してしまったりしているのかもしれない。こうした度々平山が「見えなくなる」トイレ清掃員としての平山の「不可視性」や存在としてのディスコミュニケーションがある種の世間の姿を映しているのだと思う。

そんな見られ方もおそらく客観視した上で、それでも仕事に誇りを持ち、フチ裏の汚れを手鏡でチェックしたり、決して怒ることも手を抜くこともなく、真っ直ぐ丁寧に仕事に取り組む平山。トイレに忍ばせてあった切れ端でどこかの誰かとつながるマルバツゲームは、匿名的で「顔が見えないこと」がむしろ人を結び付け得る現代を示唆している部分もあるだろう。もちろんこれらの行動に、平山の豊かな心持ちや、静かな、それでいて確かな彼の美学、やさしいまなざしが垣間見える。

妹の娘との日々。親の話はあまりでてこなかったが、妹のステータスから分かるように平山自身育ちはよく、何かがきっかけで、自ら選び取ってこの生活を送っているような気がする。ヴィム・ヴェンダースが好む日本人的な慎ましさが平山の日々の暮らしの中に随所に出ていたと思うし、我々がいま考えるべき生き方でもあるように思える。最後のシーンの涙はきっと後悔や不甲斐なさのようなものでもなく、何気なく送っている毎日を否定するものでもなく、ふと日々を振り返った時に、我に返った時にやってくる寂しさや葛藤のようなものだったりするのだろう。大丈夫、人生に正解はない。

ちなみに平山がアヤにキスをされて一見ベタな反応を見せたシーンについては、違和感があって然るべきシーンといいますか、僕は素直に半分安心、半分辟易しながら「ベタだなあ」と思いました。平山は聖人ではないことの証左でもあるし、いい意味で興醒めして良いし、平山が一旦「平山らしさという生き方」の生活概念の記号から抜ける瞬間でもありますね。男なんてそんなもんというある種の普遍性、諦念、これがヴィム・ヴェンダースなりのメッセージだとも捉えてます。

あと自らに即してやや卑屈に考えるのならば、若い女性に好意を寄せられた事そのものではなくて、自らを客観視する中でトイレ清掃員で生きる自分なんかに、世界がまったく違う人間、その他者の評価軸が非言語コミュニケーションを通してジワっと入り込んできた、そんなことがあり得るんだ、というような、自分自身を見直した、その感覚へのニヤけ、という感じでしょうか。自分に対して自分自身が裏切らなければよいと思って生きてきた中で、普段交わりようのない他者に認められるのも良いもんだな、捨てたもんじゃないという感覚です。


光一辺倒、直接的な輝きを放つことに躍起になる人間も多ければ、平山は「木漏れ日」側の人間だからこそ、言葉少なぼんやりと曖昧としていたい部分もあれば、自らの美学を確かに持つハッキリくっきりとした部分もある。今にも過去にも、そうした部分は誰しもが持っているはずだし、平山は誰よりも木漏れ日が織りなす光と影を知っているし、影の中にある重層的な黒の深みを、そのグラデーションを信じているのだろう。

人生は木漏れ日のように、思いがけず誰かとどこかで関わり合いながら、揺れ動きながら、光を通し、影を重ねて、何層もの色を煌めかせるものなのかもしれない。

「今度は今度。いまはいま」

「影って重なったら濃くなるんですかね」