大島育宙

PERFECT DAYSの大島育宙のレビュー・感想・評価

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
4.2
罪な映画だ。
 
映画が必要でなくなってしまいそうな時代に、
映画が必要なんだということを、
土俵際で粘るような映画だ。

これが求められるのもまんまとわかる。
ヴェンダースにマーケティング的な下心はほとんどないだろう。

でも結果的にこの映画が広く支持されているのは、
意地悪な言い方をすれば、わかりやすく
「デジタル・デトックス・ポルノ」だからだ。

仕事で必要だから。
話題に乗り遅れるから。
楽しいものを追いかけたいから。
そんな紋切り型の言い訳で
デジタル世界に接続し続けて生きている現代人が、
同じ時代にこんな生き方ができるのか、
と憧れるには十二分なアイテムが
ぴったりと敷き詰められた
平山(役所広司)の生活。
あざといくらいにアナログな生活。

イヤホンをしない。
スマホを使わない。
現像した写真を月1で缶にしまう。
ボツ写真は破り捨てる。
植物と古本。

カセットテープやフィルムカメラのように、
デジタルではなくアナログで、
手触りを残すように素手で世界に触れたい。
資本主義から、情報消耗社会から、
降りたいけど降り方がわからない。
そんな生活を送っていたら、
テレビもない平山の部屋に憧れて当然だ。

平山の生活のもう一つの特徴は
「公共空間への信頼」だ。
清掃する仕事場としての公衆トイレ、
開店時に一番乗りする銭湯、
コインランドリーなどは諸にわかりやすい。
古本屋も一度人の手に渡った、
公共を経由した本を集める場所だ。
彼が行きつける浅草駅の地下街の飲み屋も、
人々が行き交う通路と地続きだ。
彼の部屋が質素なのは
所有主義から離脱しているからだけではなく、
公に与えられている空間と私的空間に
壁を見ていないからだ。

「即物性からの離脱」と「公共空間への信頼」が
平山(役所広司)の性格だ。
そして、彼の魅力はその二つの、
それ自体では多く見覚えのある特性のフュージョンによって、ちょうど無害で器用な生き方を確立している点にある。
現代人の憧れを喚起するために象られた、
悪魔のようなキャラクターだ。

資本主義、もっと言えば新自由主義、
加速して止まらない情報消耗社会から
離脱しようとするキャラクターは、
得てして攻撃的になる。
社会や金や努力を嘲笑う。
しかし、平山は他者の価値観に関わらない。

公共空間を信頼しすぎるキャラクターは、
得てして奇人に描かれる。
時には法外の人物として迷惑者に描かれる。
平山はそうは描かれない。
田中泯が演じるホームレスの存在により、
線が引かれる。

平山の悪魔的魅力は、
現代的器用さを突き詰めたクレバーさだ。
物質主義から逃げながらも東京の都心に住んでいる。清掃を担当するトイレもモダンで比較的綺麗な
最近大企業の肝入りでデザインされたばかりの
しゃらくさいトイレばかりだ。

素手で世界に触るように誠実にトイレを掃除するが、
彼のマイブームのようなノリかもしれない、
とも思えてしまう。
公共空間を信頼し、
公衆衛生を守る騎士のような真面目人間ではない。

彼は、毎日飲酒自転車で帰宅する。
物質主義からの逃避と
公共空間への信頼の
フュージョンにより象られた価値観が
彼の中のマイブームなだけで、
道路交通法などは彼の内面にはない。
それでいい。
(※訂正 このシーンで酒飲んでないかもらしい。変人すぎない?)

神社の敷地から植物を持ち去るのを
黙認されているシーンもあるが、
彼がなぜそんなことをしているのかは
説明されない。

彼の独自に築かれたように見える価値観に、
独自の手順で価値観を築く時間も余裕もない現代人が
憧れるのはそのまま素直な感想だ。

大企業が宣伝のために企画した映画なので、
真の暗部は描かれていない、
という批判も真っ当だ。

しかし私は、そんな二項対立を
平山は微笑みのような笑顔で薄ら笑って
どこかへ行ってしまうような気がする。

豊潤な文化資本を持つ彼は、
都市のインフラ労働を体現する存在であるとは
考えにくい。
彼の豊かな本棚とカセット棚が
映画後半になるまで画角から隠されているのは
作為だとも感じる。

きっと彼は、
何か気が変わって親族に頭を下げたり、
行きつけの小料理屋の女将の元夫(三浦友和)
との仲を育てたりすれば、
容易に私たちと同じ現代のゲーム社会に復帰する。

そこで
「平山さんはね、1回仕事を辞めて失踪しててね、
何年かトイレの清掃員してたらしいよ。凄いよね」と、ミニマリスト生活も武勇伝として他者に語らせる
おじさんになるかもしれない。
そんな信用ならなさが、平山にはある。

所有とデジタルに塗れた現代人という仔羊を
憧れさせるために象られたジョーカーだから、
きっと簡単に私たちを裏切る。
そういう彼の信用できなさが、
まさにそのまま東京を、都市を、
まんまと体現している。

だから彼は、排泄をしない。
飯もほとんど食わない。
なぜか自炊もしない。
悪魔だからだ。
人間ではない。
広告に、人間は出られない。

そんな悪魔を「人間らしい」と愛着するところまで我々は速度と物質に犯されてしまった。

倍速再生もタップしてスキップも戻しもできない、
等倍の映像でないと、アナログ信仰は届かない。

映画館という公共空間で、
公共を信頼する悪魔を愛でる。
まんまと、やられている。
手強い悪魔だ。

平山に憧れることで
我々は人間に一歩戻れたと錯覚するが
実は機械に一歩近づいているのかもしれない。

役所広司に騙されるな。
私たちは、平山より人間になれる。戻れる。