裁判という空間で、検察/弁護人が色んな証拠に基づいてそれぞれの主張を組み立てていって無罪/有罪が決まる、という構造によって、その主張を聞いている個々人の主観の"ブレ幅"がより際立つなあと思った。
純粋な主題以外にも、セクシュアリティ/子供に対するバイアスも見て取れて、「怪物」と少し似ているのかなと思ったけれど、裁判をベースに物語が展開するが故に、こっちの方が主観のバイアスによるエグさをより構造的に感じたかもしれない。
誰しもが、自分が理解しやすいように色んなストーリーを脳内で組み立てていく中で、罪悪感とか現実逃避とか自分を守るためとか、現実には起こっていない非現実(≒嘘)を意識/無意識的に入れ込むことによって、それを自分にとって受け入れやすいものにしている人もいて、結果それがその人にとっての"現実"になっていくのかな、と思う。
無意識のバイアスによって物語を"創造"してしまう可能性はいつでもあると思うけれど、それが事実ではない可能性も引っくるめてその人を信じたいと思えたら、その時は自己責任でその人のことを信じれば良いのかなと?
無罪は無実とは別物だし、本当は何があったかを限られた要素から全て知るのは難しいけれど、主観を完全に取り除くのは不可能だからこそ、自分が主観的であることを理解した上で、客観性を取り入れようとする努力が大事なのかなと改めて思った。
そしてスヌープが元気かが気になりすぎている。