マインド亀

関心領域のマインド亀のレビュー・感想・評価

関心領域(2023年製作の映画)
5.0
映画館を出ると、世界の景色が沈む

●ホロコースト映画は、ホロコーストを観客に生々しく伝えたいがために、それを役者に演じさせること、それそのものがホロコーストを見世物にし、エンターテインメントとして人々に消費させることなのではないか、という批判にさらされてきていた。
(それは本作で、アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を客体化して見せるように、一種のツーリズム化とも結びついている)
アウシュビッツの中で平然と行われてきた残虐な行為を全く映さずして、観客の脳内にその恐怖を植え付け、今も世界で行われている暴力に対する無関心さを浮き彫りにすることができるのか………
そういう高難度な問を、革新的な手法で成功させているのが本作、『関心領域』である───

●今、私はこの映画を観て、体調を崩しそうになっています。映画館を出て、映画館の外の世界が、この映画と地続きであること、今も行われている世界の暴力と地続きであると実感しています。

映画館を出て見た外の世界の色が、なんと沈んでいることか───。

自分の関心領域が拡張し、今の自分の無関心がどれだけ暴力に加担しているかを考える事になり、家のリビングでのうのうと過ごし、映画のレビューを考えたりテレビをつけたりパンフレットデザインを読んだり、家族と過ごすこの日常に、「恐怖」を感じています。
それだけこの映画は、「未来の今」のことを、「現在の自分」を、描いているのだと思うのです。

●本作のカメラは、鮮明に全てを映す「現代のレンズ」を使用し、さらに当時には無かった高精細なサーモグラフィーカメラまでも使用し、「現代の視点」で当時を描き出しています。「あの頃は」という現代から切り離された風景をパッケージングした映画ではない、ということなんですね。

●そしてこの映画で映し出されるのは、家庭的で仕事に精を出す父親と、理想の生活を手に入れた母親、そして子どもたちといった、ある種、ピクニックの好きな、極めて人間的な生活を営む家族の日常生活、ホームドラマなんです。その風景は、静止画で見ていれば、なんてことのない生活そのものであり、なんなら今の私達の生活と変わらないもしくはさらに豊かな生活にも見て取れるでしょう。
それらは決して人物に寄ることもなく、家中に隠された定点カメラによって切り出され、初期のバイオハザードのように住人の行動を次々と追っていくのです。
監督はジョナサン・グレイザー。あの世界で最も有名な「動く床」の、ジャミロクワイ『virtual insanity』のMVを撮った監督です。凝りに凝ったディテールのセットを駆使し、緻密な計算で動きを見せるところに、本作と共通する部分が見て取れます。

●しかしその一つ一つのシーンは、すべてどこかに違和感を感じるポイントを織り込んで構成されており、さらに常に鳴り響く音響によって、平和な世界と地獄との壁一枚を隔てたバキバキのコントラストをつけて表されているのです。
やはりさすがにアカデミー音響賞を受賞しただけあり、音像の構造と設計が飛び抜けて素晴らしい。目を瞑って音だけを聞くと、遠くで鳴り響く地獄の景色。
最初は鳴り響く車のモーター音や、遊ぶ子どもたちの声、泣き止まない赤ちゃんの声が常に聞こえています。しかし、その音がいつの間にかどのシーンにも鳴り響き、観客はその内にその音がアウシュビッツでユダヤ人を焼却するボイラーの音と、絶叫する声なのだと次第に気づいていくわけです。
この音設計は人の心理に沿って極めて緻密に設計されており、観客がその音に慣れてしまったときに、一瞬恐怖の側に観客を引きずり戻すようになっています。壁の外の音が主体となる登場人物のすぐそばに近寄ってきたりするんですよね。
登場人物達はその音に気づいているのか、慣れてしまっているのか、気づかないふりをしているのか───

●そして子どもたちが遊ぶ庭の向こうに、並んだ煙突から煙が上がったり人々を運ぶ汽車の煙が流れたり、また、川べりで話し合う夫婦の土手の向こうに歩くナチス兵が見えたり、忙しそうに準備する朝食や昼食の風景に常に視線を床に落とすユダヤ人のお手伝いの影が写っていたり……日常生活の風景の中によくよく目を凝らして見ると、どこか一つ恐怖の違和感を緻密に織り込み、常に得体のしれない恐怖を観客の深層心理にサブリミナルのように刷り込んでいくのです。
印象的なシーンは、夜、父ルドルフ・ヘスがプールサイドのシャワーの水を止め、火のついたタバコを吸うシーン。ポッとタバコの赤い火が光ると同時に、遠景の煙突から赤い火が光り、煙が出てくる───観客の脳内では、彼ら家族の日常の光景に、収容所でのガス室のシャワーと死体の焼却の様子が勝手にオーバーラップされるわけです。
収容所で行われた残虐な行為を想起させる、日常生活との重なりを緻密に描いているんですね。
またその緻密な構成は、知らず知らずに妻の母や子どもたちの精神を蝕んでいく描写にも活かされていくわけです。
真夜中に壁の向こうで赤く燃える火の光によって、妻の母の顔は赤く照らされます。ぼーっと母はその火を眺め、画面いっぱいに赤色が広がります。娘が理想の生活を手に入れたことを誇りに思っていた母は、壁の向こうで行われていることに気づかないふりをして、実際には精神が蝕まれていたのです。
また、分別のつく年齢になった長男は明らかに収容所の影響が大きい。父親たちがそうしているように、突然温室に弟を閉じ込める、いたずらというより、虐殺への願望を隠しきれない行動に出るわけです。
次男もまた、人を殺すことに無感情になれる兆候が見て取れるんですね。
日常生活を描きながら、家族の精神状態を映像だけで巧みに表現しているわけです。この映画はおそらく何回も見直すたびに、ギョッとするような再発見があるのだと思います。

●収容所での行いに唯一当事者である父もまた、いつの間にか精神が蝕まれているんですね。一人単身赴任のように新天地に渡った後、また再び理想のマイホームに戻されると知らされた時に、身体は限界まで来ていた事が分かるわけです。嬉しいはずのマイホームの帰還。しかし何故か身体は拒否反応を示している───
しかし本作で最も「凡庸な悪」であるのは妻で、彼女はすなわち今の私達と全く同じなのだと思います。当事者である父とは違い、壁で隔たったところにいる妻は、関心の領域がその今の生活にしかなく、夫の異動を知らされたときに、自分たちだけでもこの家の理想の生活にしがみつこうとする。
まさに彼女は、私達ではないでしょうか。
本作における彼女の描写は、無関心こそが悪への加担ではないか、もっとも罪なことではないかと我々に問うているような気がします。
妻役は『落下の解剖学』で『関心領域』とともにアカデミー賞にノミネートされたザンドラ・ヒュラー。決してカメラが彼女に寄ることはありませんが、『落下の解剖学』と同様に、子供たちには良い母親だけど、どこか冷徹な人間性を伺わせる、観客に感情移入させない妻の演技は、本当に彼女のことが嫌いになりそうな、ナチュラルかつ恐ろしい人物像でした。

●ラストシーンは、観客に「これは未来の今だ」「今の我々だ」と突きつけるようなショッキングな仕掛けが施されています。同時に、「おまえたちは、今からこの世界の未来が想像できるか」と問われてもいるのだと思います。「お前の今の無関心さが、こういう未来を産むんだぞ」と。
「リンゴ」を差し出す我々になれるのか、それとも略奪する我々のままでいるのか…この映画は誤読の許されない明確なメッセージを送っており、観客に思考を委ねた『オッペンハイマー』よりも強烈で素晴らしい作品だと思います。アカデミー作品賞は、私は本作こそが取るべきであり、この作品に取らせなかったアカデミー賞の限界を私は感じてしまいました。
監督のアカデミー賞の壇上におけるイスラエル批判は、この映画においても現実においても、一貫した意思表示であり、これについて批判する人々は、この作品を観て何を感じ、何を考えているのかと問いただしたいですね。とても勇気のある行動ですし、そういうところからも、本作こそが『オッペンハイマー』よりも認められるべき作品であることは明らかだと思います。
本作こそが、全人類が見るべき作品。一時的に体調を崩したとしても、絶対に見るべき作品だと思います。そして音が大事ですので、劇場での鑑賞を心からオススメいたします。お願いします!
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