耶馬英彦

ふたりのマエストロの耶馬英彦のレビュー・感想・評価

ふたりのマエストロ(2022年製作の映画)
4.0
 ウィーン・フィルハーモニー・オーケストラの公演をサントリーホールで聴いたことがある。そのときのアンコール曲がモーツァルトの「フィガロの結婚 序曲」で、美しく澄んだ豊かな音楽に感心した記憶がある。本作品でも聴けて嬉しかった。

 推し量り難かったのが、スカラ座の音楽総監督の立場がどれほどの名誉職なのかということだ。ウィーン・フィルやベルリン・フィルの首席指揮者と比べてどうなのだろう。そもそも指揮者の仕事はオーケストラを纏め上げて聴衆にいい音楽を届けることにある。収入には差があるだろうが、どのオーケストラの指揮者であっても関係がない気もする。

 人間関係はさすがにフランス人で、相手の土俵にズカズカと踏み込むが、人格までは否定しない、自分も含めて俯瞰で物事を見る、といった精神性がある。人を不快にすることはあっても、絶望させることは避ける。登場人物は言いたいことをいうが、他人の人生を尊重するところが、SNSの言いたい放題とは一線を画している。
 それにしても主人公のドゥニは温厚で寛大だ。別れた妻ジャンヌは、人間としては優しさに欠けるが、マネジメント能力は優秀だ。人格否定をせず、いいところと付き合う。新しい愛人ヴィルジニは、音楽的な才能はいまひとつでも、ハンディキャップにめげずに強く生きているところが尊敬できる。愛情の深い彼女との時間はとても大切だ。どうにかグレずにいる息子は、頭がよくて優しさもある。
 問題は父親のフランソワだ。弱い人で、権威にすがりたがる。怒鳴り散らすことを権威と勘違いしているフシもある。しかし音楽に対しては一途で、他人に対する悪意はない。根は善人なのだ。なんとか彼を傷つけないでおきたいドゥニの気持ちはよくわかる。
 と、そこまで考えて、スカラ座の音楽総監督に指名されたフランソワの嬉しさが漸く理解できた。スカラ座という施設には、18世紀から続く歴史的な価値がある。つまりそこの音楽総監督になることは、歴史が認めた権威ある職に就くことなのだ。権威主義者のフランソワが殊の外喜んだのはそういう理由である。なんともつまらんじいさんだ。

 ドゥニがどうしてそんなつまらんじいさんに遠慮するのか、最後の方になって、ようやくその秘密がわかる。Miou-Miouが演じたドゥニの母親は、若い頃は結構な発展家だったという訳だ。狷介な父親と違い、ドゥニには優しさと大らかさがある。フランソワの権威主義を理解し、失った自信を取り戻してもらいたいと考える。そして「フィガロの結婚 序曲」である。拍手。
耶馬英彦

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