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瞳をとじてのambiorixのレビュー・感想・評価

瞳をとじて(2023年製作の映画)
4.4
㊗️Filmarks100本目のレビュー!🥳🎉🎊
とはいえ、過去に何本か消したものがあるので、厳密にいえば100本をとっくに超えとるわけですが…。

・はじめに
1947年、冬のパリ郊外。ばかにでかいが今やすっかりくたびれてしまった屋敷に中国人の使用人と慎ましく暮らす「悲しみの王」ことトリスト・ル・ロワ。そこにフランコ独裁政権に敗北し没落したとおぼしきアナーキストのフランクがやってくる。映画はまず、2人の会話のそっけない切り返しからはじまるのだが、この時点の俺はもはや映画どころではなかった。というのも、眼前で展開される光景が「1990年代に突如として失踪した俳優を22年後に探す」という、あらかじめ聞かされていたあらすじとあまりにもかけ離れていたからだ(笑)。本気で見る映画を間違えたのかと思ってしまったぐらいだ(今回行った日比谷のシャンテはそういうアクシデントが起きてもおかしくない構造にはなっている)。このシークェンスの直後、現代のマドリードの街並みが映ったところで俺はようやく安堵する。そう、今まで見ていたものの正体は、やたらと手の込んだ「映画内映画」だったのだ。

・ビクトル・エリセの長編映画(31年ぶり4回目)
昨年大絶賛した『TAR/ター』(2022)のトッド・フィールド監督は、20年強のキャリアで長編映画を3本しか撮らなかった寡作家として有名だ。しかし本作『瞳をとじて』(2023)の監督ビクトル・エリセはそのはるか上を行く。なぜならこの人は1969年の監督デビューから本作までの54年間で、長編映画をたった4本しか撮っておらないからである。しかも前作の『マルメロの陽光』(1992)からはなんと31年ぶり…とかいうもろもろの周辺情報はこの映画を取り上げた提灯記事にクソほど書いてあると思うので、そちらを参照していただきたい。とりあえずひとつ言えるのは、本作『瞳をとじて』が、伝説的な大巨匠が超久しぶりに放ったとんでもない一作だということである。

ビクトル・エリセの映画には作品を横断して表れるモチーフがいくつかある。代表的な例をあげるなら、「取り返しのつかない過去の記憶に苦しみ続ける人間」「名前へのこだわり」そしてさいぜん申し上げた「映画内映画」といったところだろうか。これらの要素は、決して多弁ではないエリセの登場人物を駆動せしめるものであると同時に、世界や家族との関係性の変化をもたらす触媒でもある。以下でひとつずつ掘り下げてみたい。

・取り返しのつかない過去を引きずる人たち
人間なら誰しも「あの時こうしていたら…」「あの時ああならなかったら…」と過去を悔やむことがあるはずだ。しかし一度過ぎ去った時間は決して元には戻らない。ちなみに俺の人生最大の後悔は4年前、趣味でやっている一口馬主クラブのカタログのなかから「こいつは間違いなく走る!」と見込みのありそうな1頭をピックアップするも、出資申し込みの締切日を忘れてうっかり買い損ねた幼駒が、のちにG1レースを6連勝するなどして日本競馬史上最強のウマになってしまったことだった(わかる人にしか伝わらないように書いていますが、以後この事件のせいでうつ病のような状態になってしまいました)。

閑話休題。エリセの映画のなかにも、過去に起きた出来事や選んだ選択肢を後悔し続ける大人たちがよく出てくる。長編デビュー作の『ミツバチのささやき』(1973)の、スペイン内戦で傷つき養蜂家に身をやつした父親と、過去に別れたらしい恋人をいまだに想い続ける母親。あるいは、故郷に残してきた両親や元恋人のことを想うあまり徐々に家族を顧みなくなる『エル・スール』(1982)の父親。もちろん本作の登場人物たちも過去に苛まれている。最愛の息子を事故で失った哀しみと未完に終わった映画に固執し続けるミゲル、世界から消えつつある映画フィルムの蒐集家である映画編集者のマックス、父親に関する記憶をスクリーンの中にしか持っておらないアナ。そして自身の過去をいっさい持たないフリオ=ガルデルは彼らとネガとポジのような関係を成している。

・名前とはなにか?
本作『瞳をとじて』は、ビクトル・エリセの自己言及的な要素に満ち満ちている。その代表的な例は言うまでもなく、『ミツバチのささやき』の撮影当時5歳だったアナ・トレントが50年ぶりに同じ「アナ」という役名で登場し、あの名言を言い放つことだろう。他にもミゲルの自宅で交わされる会話の中に『エル・スール』の主人公エストレーリャの名前が出てきたり、「未完の映画」を最後に監督を廃業したミゲルにエリセ自身のキャリアが重ねられていたり。後者についてはのちに言及する。

ここで重要なのは、この映画が登場人物の「名前」に固執していることだ。そもそも名前の機能とはいったいなんだろうか。パッと思いついたのは、アイデンティティを発露するもの、自己と他者とを区別するもの、逆に自己と他者とを結びつけるもの。3番目はいわゆるあだ名というやつだ。劇中であだ名を持つのは、フリオ=ガルデルとフィルノ=デカ足の2人だが、彼らは本名ではなくあだ名を名乗ることによって他者とつながり、自身の居場所を確保している。同時にあだ名が自身のアイデンティティを証すものともなっている(これは1番目の機能)。その一方で「自己を隠蔽するための名前」というのもあるように思う。映画内映画に出てくるトリスト・ル・ロワがそれで、モロッコのタンジェに生まれたスペイン人で現在フランスに住んでいる彼は、今の地位を築くために数々の死線を潜ってきたものと思わる。そんな状況下で生き抜くために複数の名前を自称する必要に迫られたのかもしれない。しかし、本名でもあだ名でもない名前を名乗り続けるうちにトリスト・ル・ロワはアイデンティティをすっかり喪失してしまう。

・「わたしはアナよ」(50年ぶり2回目)
ここで面白いのが、かつて映画内映画「別れのまなざし」のなかでフランクの役を演じていたフリオ=ガルデルが、ミゲルやアナとの再会を果たすことによって、徐々に相手方のトリスト・ル・ロワそっくりになっていくところ。複数の名前の間でアイデンティティを失い、生き別れた娘とも決定的に引き裂かれた哀れな老人に。

他方、本作の終盤でアナが発する「ソイ、アナ(わたしはアナよ)」がいけすかないシネフィルへのあざとい目配せで終わらないのは、このセリフが自身のアイデンティティを喪失したもの(名前の第4の機能)と自身のアイデンティティを証明しようとするもの(名前の第1の機能)とのみごとな対比になっているからだ。過去の記憶をなくし、自分のことなんざもはや微塵も覚えておらない父親に「(それでも)わたしは(あなたの娘の)アナよ」と言い続けること。そんな彼女の愚直さこそが観客の胸を打つのだ。フリオとアナの構図はそのまま映画内映画の父娘へと引き継がれる。
「わたしの名前はチャオ・シュー」

・未完の作品へのオブセッション
名作『エル・スール』が未完成の映画だったことをみなさんはご存知だろうか。構想の段階では二部構成だったのだけれども、主人公が北から南(スール)に旅立とうという一部の時点で映画の製作が打ち切られてしまう。それでも完成した一本の作品として視聴できてしまうのがすごいところなのだが、『エル・スール』が完成に至らなかったのは「おもに経済上の理由が大きかったから」とのことらしい。エリセ監督は当時の決定をいたく後悔しているそうだ(それこそ彼の映画の登場人物のように)。余談だが、唯一未見の『マルメロの陽光』のなかにも20年もの間、同じ絵を描き続けながら一向に完成させられない画家が出てくると聞く。そんなエリセが「撮られなかった映画についての映画」を撮ることはもはや必然だった、といっても言い過ぎではないだろう。そう見てくると本作の主人公ミゲルがあたかもエリセ自身のように思えてくる。両者とも未完の映画を諦めたのちに長編映画の監督を廃業し、おもに短編を手がける作家として活動する(ゼロ年代以降のエリセはほとんど短編映画の作家と化している)。しかし、撮られなかった映画に対するオブセッションが後年ふたたび彼らを駆り立てていく。

・映画内映画と映画の奇跡的交歓
『ミツバチのささやき』の主人公アナを現実と虚構のあわいへといざなう『フランケンシュタイン』(1931)や、『エル・スール』の主人公エストレーリャの父親を死に追いやった遠因でもある元恋人の映画などなど、ビクトル・エリセの映画に「映画内映画」は決して欠かすことのできない存在だ。もちろん映画内映画そのものを題材にした本作『瞳をとじて』においても、このモチーフは重要な機能を果たすわけだが、あんまりやるとキリがないので、ここでは終盤の映画館のシークェンスに絞って考えてみる。

アナと再会したにもかかわらず、いまだにフリオの記憶が戻らないことに業を煮やしたミゲルは、彼が主演していた未完の映画「別れのまなざし」のラストシーンを見せることでもってショック療法を施そうとする。映画の上映を手伝いにきたマックスは冗談混じりに言う。「奇跡なんか(カール・テオドア・)ドライヤー以来起きたためしがない」と。映画監督をとうによしてしまったミゲル=エリセももはや映画を過去の遺物と見なし、世界を変える力を持ったメディアだとは考えていないのかもしれない。それでも2人の映画監督は奇跡が起こってしまう方に、映画でもって世界を変革してしまえる一縷の望みの方に賭けているように思うのだ。

「結局フリオの記憶は戻ったの?」あのラストシーンはいかようにも解釈できるように描いてあるのだが、野暮天を承知で俺なりに読み解いていきたい。先述したように、アナとフリオの再会と発話(「わたしはアナよ」)というシチュエーションを映画内映画の父娘がそのまま引き継ぐことによって、両者の間にゆるやかな紐帯が作られる。次に映画内映画のなかでまなざしの交換が行われる。娘チャオ・シューが父トリスト・ル・ロワをはっきりと見据え、それを確認した父はやがて息を引き取り瞳を閉じる。今度はそのアクションの連鎖が映画内映画の世界から映画の世界へと送り返される。ここでアナはチャオ・シューのごとくフリオの方をまなざし、フリオはトリスト・ル・ロワのごとくゆっくりと瞳を閉じていく。映画内映画の父娘と映画の父娘とが同じ動作を反復すること。これはつまり、フリオの記憶が戻り、アナが自分の娘だということを思い出した証左に他ならないだろう。奇跡は本当に起きたのだ。そして、最小限の身振りと視線の動きでもって「映画内映画と映画をつないでみせる」という、奇跡的な離れ業をやってのけた御年83のビクトル・エリセに、われわれ観客は完全降伏するしかないのであった。このジジイ、やっぱりただモンじゃあない…。
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