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哀れなるものたちのambiorixのレビュー・感想・評価

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
4.2
おれ、原作厨になってしまった…(ブレンパワードの主人公風に)
映画を見終わったあとにぼくの胸中に去来したのは自己嫌悪の気持ちだった。そこには、劇中で皮肉られる男たちのクソさに、同じ男として居心地の悪さを覚えてしまったせいも多少はあるのかもしれないが、それ以上にこたえたのが、「自分が原作のイメージに引っ張られすぎていることに気付いてしまったこと」だった。この場合の原作というのは、言うまでもなくスコットランドの奇才アラスター・グレイが1992年に著したメタゴシック小説「哀れなるものたち」のことを指すわけだが、これを先に読んでしまったのが不味かった。早い話が、映画よりも原作小説の方が面白かったのだ(笑)。

先日のセクシー田中さん騒動であらためて浮き彫りになったように、「漫画や小説をどう映像化すべきか?」というのは決して答えの出ない難しい問題だ。原作者やファンに配慮しながら原作をそのまま映像に置き換えるのか、あるいはもはや原型を留めないぐらいめちゃくちゃにぶっ壊してしまうのか。現実は両極のグラデーションの間にあるどこかの地点で折り合いをつけなくてはいけないわけだが…(ぼく個人としては当該作品の核心の部分を弄らない範囲であればどんどん改変すべきだと思っている)。そこへいくと、アラスター・グレイの小説を映像化し、昨年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した本作『哀れなるものたち』(2023)の監督ヨルゴス・ランティモスは、映像化不可能と言われ、30年以上も手付かずの状態だった原作をどう料理したか。ぶっちゃけて言ってしまうと、この監督はとんでもない改変をかましてしまっているのだが、ここからはあえて原作には触れずに語ってみたい。

・ヨルゴス・ランティモスという男
現役の映画監督のなかで、おそらくヨルゴス・ランティモスほど作家性が強く、「ヘンテコ」としか形容しようのない作品を作り続ける人もいないだろう。過保護すぎる父親に支配された家族が機能不全に陥るさまを描く『籠の中の乙女』(2008)、死んだ人間を演じるうちに現実と虚構の区別がつかなくなってしまう『アルプス』(2011)、結婚できない独身者が動物に変えられてしまうディストピア世界を描いた『ロブスター』(2016)、医療ミスで殺した患者と引き換えに自分の家族を殺すよう強いられる不条理スリラー『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』(2018)、イギリス女王とその愛人と没落貴族との三すくみで繰り広げられるブラックコメディ『女王陛下のお気に入り』(2019)などなど…。とにかくヘンテコで不愉快で悪趣味で胸糞悪くて、そして最高に面白い映画を世に問い続けている。

・やみつきになってしまう演出のひみつ
ベラが橋の欄干から身を投げるファーストシーンと大学のシーンに引き続いて流れるモノクロのシークェンスは、ランティモスの映画を一度でも見たことがある人なら思わず小躍りしてしまうはずだ(逆に初見の観客はたいそう面食らうに違いない)。歪みきった画面を演出する広角レンズ、キャメラがひとりでに意思を持ったかのようなズームイン/アウト、人物の移動を真っ正面からとらえたトラッキングショット、不意打ちのごとく行われる素早いパン、魚眼とシャローフォーカスを組み合わせた背景をバックに行われる会話の切り返し。さらに本作ではサイレントの時代に多用されたアイリスショットのような技法も使われている。ここにバッキバキに決まった構図のフレーミングや、耳障りなストリングスをメインに構成された劇伴が加わるわけだが、これらのテクニックは、ランティモス映画特有のくせになるヘンテコ感を醸し出すと同時に、作品世界の虚構っぽさや寓話っぽさを高めることにも一役買っている。表現手法と内容とをきっちりリンクさせているわけだ。また、あたかも登場人物たちのイカれた内面の反映であるかのように背景や建築物を歪ませる本作の魚眼レンズの使い方は、どこかドイツ表現主義の芸術を思わせるものがあった。

・戯画化された社会規範に踊らされる人間
テーマの面にも触れておこう。彼の作品に一貫して流れるモチーフ、それは「カリカチュアされた社会規範に踊らされる人間を描くこと」である。どういうことか。もっともわかりやすいのが、出世作となった『籠の中の乙女』だろう。家族を外界の悪徳に晒したくない妄執に取り憑かれた父親が、妻と3人の子供を自宅に閉じ込めて不条理なルールを強いたあげく家族を崩壊させていく。子供たちはルールに従いつつもその枠組みの中でなんとか脱出を試みる…。この作品では、「家族」や「家族愛」みたいなものを極限まで戯画化し不条理化し相対化することによって、われわれ観客が自明視していた家族の概念や価値観、および社会規範をキャラクターごとめちゃめちゃに叩き壊していく。それをいかにも社会派ぶった神妙な手つきでおこなうのではなく、シニカルでブラックな笑いを散りばめてやってのけるのがランティモススタイル。そこで皮肉られるコードというのは、『ロブスター』では恋愛だったりするし、『女王陛下のお気に入り』では息苦しい宮廷内のルールだったりする。そして本作『哀れなるものたち』で審問に付されるのは、みなさんお気づきのように「家父長主義」だ。しかし、先に少しだけネタバレしてしまうとこの映画、彼の作品には珍しく(初めて?)ハッピーエンドで終わっている。

・伝説のクソ映画『ショーガール』との共通点
本作はSF小説の元祖とも言われるメアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」を下敷きにしている。しかし、ぼくが思うにこの映画のフランケンシュタイン要素というのはあくまで、主人公のベラ・バクスターが(自殺した女性の頭部に胎児の脳を移植した)人造人間であったり、ベラを創造したゴドウィン・バクスターの名前がシェリーの父親からきていたりする、という程度のものでしかない。本作においてもっとも重要なのは、「大人の女性の身体を持った子供の視点から世界を眺めさせること」。フランケンシュタインからの引用はこのためになされたのだ。主人公のベラは子供の脳を持つがゆえに大人の社会、劇中の皮肉めいた表現を借りるなら「良識ある社会」のルールがわからない。テーブルマナーだったり、他者との距離の取り方だったり、セックスに対する認識だったり、大きなところで言うと世界に蔓延する不正義だったり。けれども逆に、これらのルールが理解できないからこそ、「なんだかよくわからないけど社会の中で良しとされている決まりごと」みたいなものを徹底的に洒落のめすことができる。そこが痛快でもある。

そういう意味でいうと、本作にいちばん近いのはポール・バーホーベンの殿堂入りクソ映画『ショーガール』(1995)かもしれない(個人的には大好きな作品ですが…)。両作の主人公であるベラとノエミに共通するのは、過剰すぎるエネルギーでもって手前勝手な男の要求する理想の女性像の枠を常にはみ出してしまうところだ。そのことを象徴するのが、ベラの駆け落ちの相手であるダンカン・ウェダバーンの顛末。彼はベラに世界中を旅させ、上流階級の作法を教え込み、彼女を自分好みの女に作り替えようとする。ところが当のベラは異常な性欲やバイタリティでもってダンカンの理想とする鋳型のなかになかなか収まってくれない。自分の思い通りにならない女に困じ果てたダンカンは発狂し、精神病院にぶち込まれてしまう…。『ショーガール』が公開された1995年当時、ベラやノエミのように振る舞う主人公は、(おもに男性の観客から見て)「直情的すぎる」「下品すぎる」といって痛烈に批判された。しかし、今では『ショーガール』をフェミニズムの視点から再評価する向きも多いという。

100人切りを自称するプレイボーイのダンカンが、売春に手を染めたベラをなじるやり取りは作中屈指の爆笑シーンなのだが、同時にジェンダーの非対称性の問題をも浮かび上がらせる。男はヤッた女の数が多ければ多いほどステータスになるのに、女が同じことをするとヤリマンだの売女だのと呼ばれてしまうのはなぜ?

・ランティモスにとってのセックス
本作『哀れなるものたち』には過激な性描写が頻出する。メジャー配給の映画で近年これほどしつこくセックスが描かれる作品が果たしてあっただろうか、というぐらいである。しかし、映画を見ていてペニスがビンビンになってしまったり、股ぐらを濡らしてしまった観客というのはおそらくほとんどいないだろう。なぜならランティモス監督は、自作に出てくる性描写をポルノ的に消費できるものとして描いておらないからだ。実状はむしろその逆で、彼にとってのあけすけなセックスというのは、動物の交尾やなんかと同じで、気まずすぎて思わず目を背けたくなってしまうグロテスクなものなのだ(『籠の中の乙女』の近親相姦シーンや『女王陛下のお気に入り』のクンニシーンがその代表例)。言い換えるなら、ランティモスの作品に頻出するセックスシーンというのは、社会や強者の側が一方的に押し付けてくるコードとその乗り越え(そしてそれらは多くの場合挫折してしまう)を描くための触媒なのだ。すでにお分かりだろうが、本作においてもセックスは、「男の要求する女性らしさ」や「売春に対する嫌悪感」といった不可視のコードをあぶり出し、撹乱する役割を担わされている。

・フェミニズムとエンパワメントの極地
物語の終盤、パリの娼館で売春婦として働くにつれて、ベラのセックス観は次第に変化していく。ただひたすらに自分の快楽だけを追い求めるセックスから仕事としてのセックスへ。これはつまり、自分の要求を力づくで押し通そうとする子供の段階から引くことを覚えた大人の段階へと移行したのだ、とも言えないだろうか。その他にもベラは、本を読み漁り、異国を見聞することによって自身の視野を少しずつ広げていく。とりわけ印象的だったのがアレキサンドリアでのくだりだ。ホテルのラウンジから何の気なしに崖下を眺めると、そこには飢えた人たちがうずくまっている。恵まれた自分とはあまりにもかけ離れた境遇の人間を目の当たりにしたベラは思わず泣き崩れてしまう。そこでキャメラがググッと引いていくと、上層と下層の間で分断された階段が映し出される。世界の不正義や格差を一発でわからせるみごとなショットだと思った。このエピソードは、「未分化の状態だった自己と他者とが決定的に分離する初めての経験」を寓話化したものだと言えるかもしれない。

そして最後に、(いささか駆け足すぎる)モラハラ夫ブレシントン将軍の登場シークェンスでもってベラの人格形成はほとんど完了する。つまるところ、本作『哀れなるものたち』は、家父長主義にどっぷり浸かった男たちの鼻っ柱をへし折っていくフェミニズムの映画であると同時に、ひとりの人間が自我を獲得し自立していくまでのプロセスを描いたエンパワメントの映画でもあった。そのことをおもに「セックス」というアクションに仮託して語ってしまうところがこの映画の凄まじさ。ヨルゴス・ランティモスの過去作の主人公とは違い、ベラは、カリカチュアされた社会規範に踊らされつつも、終いにはセックスの力でもって規範の方を踊らせ、破滅させてしまうのだ。
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