ネノメタル

ブルーを笑えるその日までのネノメタルのネタバレレビュー・内容・結末

ブルーを笑えるその日まで(2022年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

恐れ入りました!
本作は淀みなきエヴァーグリーンな青春物語と思いきや良い意味で裏切られたパンキッシュ作品です!!

1.ファーストインプレッション
女子中学生の安藤絢子(アン)はいつも寡黙かつ孤独な少女だ。
とある事情がキッカケで友人同士だったグループからも仲間はずれにもされてしまってるし、家族にもそれほど心を開いていないと言うまるで水槽の中の金魚のようなそんな閉塞的な世界を生きている。
 アンはそんな世界から現実逃避するかのように「何でも屋」のババからもらった万華鏡をクルクル回してその中で美しく刹那に変わる光景に没頭してしまう。と、同時に同じクラスメートだという亡霊か幻のような佐田愛菜(アイナ)という少女がふっと現れ、屋上に行ったり、神社に行ったり、ゲーセンに行ったり、図書館に行ったり.....などなど何気ないながらもキラキラいていてかけがえないような心通わせる日々を過ごす。
 そして夏休みが始まる。今まで以上に誰の目にも触れずにもっとアイナと過ごせるようになる!そんな今だかつてなかったようなクルクルとキラキラした日々を過ごす事によってアンの瞳にいつしか輝きをもたらされ今までなかったような微笑みをもたらすようになる。
 ある日、アイナは言う。「銀河に連れて行ってあげる。木漏れ日から漏れる太陽の光はまるで銀河のようだ。」と。やがてアンはその銀河のような木漏れ日と万華鏡の景色とがオーバーラップする感覚を覚えると同時に万華鏡の筒から見えるその光景は木漏れ日や銀河の星たちと同じように2度と同じものは見えないのだ、というある意味普遍的かつ残酷な事実を知るようになる。
そしてアンはふとアイナとはこの夏休みが過ぎたら2度と会えなくなるのではと不安がよぎるようになる。
 その予感は当たる。アイナは9月1日にこの屋上から飛び降りるのだと言う。
そう、このアイナと過ごすかけがえなき時間のタイムリミットは夏休みが終わるまで。
アンはアイネと過ごした夏の終わりをカウンドダウンするかのようにカレンダーに×を付けていくにつれ、8月29、 8月30 日、8月31日と徐々にアイネとの別れの日が迫ってくるのをまた実感するようになる。
そんな万華鏡からの景色のような儚げな日々もいつか終わり、アンもいつしか成長して、大人になる階段を上ると言うようなほろ苦い青春ストーリーに収束する.......と思うじゃないですか、普通。
これが違うのだ!
これがまあ大げさではなく、異次元にぶっ飛ばされたのだ!!!
ただただこれはもうビックリ!!
本作はある意味これまでこう言う青春映画において邦画界(洋画でも言えるか)が定番としてテーマとしてきたもののフォーマットをぶち壊したと思ったし、ある意味これはパンキッシュな作風だと断言したい。
でもこんなこと言ってるのは私だけかもしれませんが...笑
 とは言え、それには根拠があって「そうか、道理でRCサクセションの『君が僕を知っている』という曲が主題歌として使われる訳だ。」とも妙に納得したものだ。この映画、途中までの展開では、割と静かなアンビエントな感じのインストルメンタルの音楽が挿入されてたりするので、もうこのまままったりとじんわりと寂しいながらも最後はふっと光が差し込むような終わり方をするのだと思っていた。それは例えば劇団四季のミュージカル『夢から醒めた夢』のようなドラマティックだけれども最後はセンチメンタルに収束する展開を予想していた。
 だから正直鑑賞前に予告編を見た段階では「何でこんな静かな作風なのに、青春モノっぽいのにあいみょんやスピッツとかではなくてRCサクセションの曲なんだろう??」と不思議に思っていたのだが本作を鑑賞する事によってもっとエッジが効いているような印象を受けたからこそ納得したのだ。
 具体的に言ってしまうとあの落書き&ダイナマイトリベンジを実行する場面ではキヨシローの歌声がこの上なくバッチリハマっているからだ。確かに本作のビジュアルイメージであるとか二人の女の子の佇まいであるとかフラジャイルな青春を扱った映画なんだけどもどこかタフで、どこかシュールでパンキッシュな怒りにも満ちていているのがこの映画の斬新さであり魅力の一つだと思う。そう考えると本作は2022年ののん(能年玲奈)監督の『Ribbon』におけるクライマックスの夜中に校内立ち入り&〇〇〇〇壊しシーンを彷彿とさせる。
 因みに本作では授業をサボってアンが屋上にいくシーンはRCの名曲『トランジスタ・ラジオ』ともリンクしたりして。

Woo 授業をサボッて Yeah
陽のあたる場所にいたんだよ
寝ころんでたのさ
屋上でたばこのけむり
とても青くて
(『トランジスタ・ラジオ』RCサクセション)

まあ本作ではタバコを吹かしはせずにむしろダイナマイトぶち撒けようとしてるんだけどね(笑)

2.セカンドフィーリング
2回目を元町映画館にて。
もう展開を知ってしまっているので今度は登場人物の情緒的な部分に気持ちがフィーカスされる。
アンの大人になる事への不安や焦燥をさながら具現化したようなあの表情だとか鶴亀商店のババのぶっきらぼうながら愛に満ちた台詞に共感し眼から洪水が溢れ出た。
ここでハッキリ言うが『アルプススタンドのはしの方』や『サマーフィルムにのって』に匹敵する歴史的な青春もの映画の傑作だと思う。あと気になったのがアンのお姉さん。お母さんが朝ごはんの時にアンは「絢子」と呼び捨てで、お姉さんには「ちゃん付け」だった点。
そういえば「安藤絢子(あんどうあやこ)」というフルネームは姓と名が同じaの母音で何となくアンバランスな気もするし、これは割と複雑な家庭の事情があったりするんだろうか?
あと鶴亀商店のババと図書館司書である佐田愛菜との関係も極めて気になったりする。
これはかなり妄想がかった深読みになるがあの二人も実は同一人物だったりしてな、いや、まさかそれはないかなどとも思ったりして。

3. フォーカス
 あと音楽関連で個人的にツボったのは個人的に「ハルカトミユキ」という今も尚活動している2人組の女性バンドにハマっていた時期があるのだが、彼女らの初期の名曲『Vanilla』のMVや歌詞世界とのシンクロニシティを感じさせた点である。
例えば
❶「屋上」に二人の女性がいて上から下を見たりする場面があったり、MVでは煙筒や映画ではダイナマイト(事実上は花火)をかざすシーンだったり
❷「カレンダー」に主人公が終わりの日に向けてバツをつけていくシーンが全くリンクしてたり
❸「水」の中へと女性が入水するシーンがあったり(MVは海で一人だけ、映画は川という違いはあるけども)
❹そして極め付けはMVの方の歌詞に

許せない
許せない
許してあげたい
あの頃の僕たちを
(『Vanilla』ハルカトミユキ)

というフレーズがあって正にこれはアイネのというよりも彼女の現在の姿である図書館司書・佐田愛菜の心象風景ともリンクする部分がとても大きいと思ったりして。
あの曲の世界観が好きな人はハマると思う。
きっとあの曲も本作も【過去の自分と向き合い、過去の自分に対して現代の自分が優しく肯定性へと導き出し、過去の自分がそのメッセージを受け取るといったようなrecursiveness(回帰性)】といった意味においてはものすごく共通してると思うから。
そう、万華鏡の光とは、単に中のカラフルなビーズのようなものがくるくる回して様々な光景を構築するだけでなく、それと同時に過去も現代も時間軸をもクルクルとキラキラと回転させ写像する事ができるのだ。そうして過去のアイネから現代の愛菜を通じてアンへとメッセージが行き渡せることができるのだ。オカルト現象やらタイムリープオプションなど使わずにこの時間軸を超える点にこそこの物語のコアがあるようにも思ったりもする。
鶴亀商店のババさん、あなたはほんとに何でも売っているじゃないですか(笑)
 そういえば、ハルカトミユキで思い出したが、彼女らのもっと初期の曲には『水槽』というタイトルの曲もあったなぁ、ということに気づく。そしてこの曲の一節が本作とものすごくシンクロする事にも気づく。

 正にアンが小さな川の中に飛び込み、泣きながら自分の苦しみをアイネに打ち明け、心の中にポッカリと空いた穴を埋めようともがいている様子はさながら水槽の中の金魚そのものである。これは正に思春期における大人になる事へのアングストなのだろうか?そこに言葉など、ましてや哲学など無力である。
ただこれだけは言える、いつかきっとそんな青春が醸し出す憂鬱(ブルー)を笑いとばせる日がきっと来る。

そこでタイトルへと辿り着く。

『ブルーを笑えるその日まで』
 
最後に本作の核の部分とシンクロするような『水槽』の歌詞の一部を引用して本レビューを締めくくりたい。

敵と味方と君と
世界中にそれだけ
言葉なんて空っぽだった
哲学は風の中

部屋は水槽のようだ
音も消えて
部屋は水槽のようだ
揺れて

たったひとつ欲しいだけなのに
たった1つ守るだけなのに
大人になる時は
少しだけ痛いよ
痛いよ
痛いよ

こんな静かな夜に君
はじけて溶ける緩いカーブを描き
溢れ出すように泣いて

(『水槽』ハルカトミユキ)
ネノメタル

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