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ザ・クリエイター/創造者のambiorixのレビュー・感想・評価

ザ・クリエイター/創造者(2023年製作の映画)
3.4
──世の中には二種類の人間がいる。映画に出てくる『ブレードランナー』みたいな街並みを見て小躍りする人間と、「またブレードランナーみたいな街並みかよ…」となってしまう人間だ。
冒頭にそれっぽい感じのエピグラフを貼っ付けてからレビューを始めるアレ、一度やってみたかったんだよなあ。さて、『ザ・クリエイター 創造者』です。監督はギャレス・エドワーズ。低予算で作った長編デビュー作『モンスターズ/地球外生命体』でにわかに注目を集め、次作でハリウッド版ゴジラの監督を、3作目では「スター・ウォーズ」シリーズのスピンオフ作品を任される、なんというワナビオタクの世界チャンピオンみたいな人です。そんな彼の最新作は、何年か前までは定期的に作られていたにもかかわらず、ここ最近めっきり影が薄くなってしまったジャンルのひとつであるオリジナル企画の超大作SF。工業製品のごとく一定周期で作られるフランチャイズのヒーロー映画、墓から無理やり引きずり出してきた名作の続編やリブート、ハリウッドの巨匠たちが作る長尺の歴史もの…などなどにいい加減うんざりしている映画ファンとしては、この心意気だけで早くも満点をつけたくなっちゃいますが、結果はどうだったか。
昔のニュース映画風の映像でもってロボットのこれまでの歩みをポンポンと手際よく見せ、人間とロボットとの共存共栄を匂わせたところでAIの放った核爆弾がドカーンと爆発する、すさまじい切れ味のオープニングシーケンスから一気に引き込まれます。核爆発から15年後。人類は、AIと共存する道を選んだ「ニューアジア」と、自分たちを攻撃したAIを殲滅しようと企む「西側諸国(?)」との二極に分かれて戦争を繰り広げていました。そんなさなか、西側諸国はニューアジアが開発した大量破壊兵器「アルファ・オー」の情報を入手、主人公のジョシュアをはじめとする特殊部隊を現地に送ります。しかし、そこで見つけたのは年端もゆかぬAIの女の子だった…。てな具合にあらすじを書いてみると、なんだかひと昔前の日本のアニメみたいなお話ですよね。『AKIRA』とか『最終兵器彼女』みたいな感じでしょうか(近年のAIもので思い浮かぶのは大失敗作『Vivy -Fluorite Eye's Song-』)。本作は、ドメスティックな家族の物語が途中にあるはずの社会のレイヤーをすっ飛ばして世界の危機へと直結する、いわゆる「セカイ系」のヴァリアントでもあるので、『新世紀エヴァンゲリオン』や新海誠映画などの系譜に位置付けることができるかもしれません。
ちなみに監督のギャレス・エドワーズは筋金入りのオタクだそう。すべての自作にサブカルからの引用やオタク的記憶のようなものを盛り込んでくるわけですが、俺に言わせれば、まさにこの部分こそが彼の作家性の最たるものであり、同時に致命的なところでもあると思う。早い話が「薄っぺらい」んですよね。取り上げた対象へのリスペクトをしきりに口にするものの、それらに対する理解の度合いが絶望的に浅いがゆえに、自らの薄っぺらさを図らずも露呈してしまう。俺はこういう連中のことを勝手に「中川翔子型オタク」と呼んでます(笑)。本作『ザ・クリエイター 創造者』で顕著なのがベトナムの扱い方。言うまでもなく、本編に再三出てくる、西洋人が東南アジア顔の村民を虐殺する絵面、というのはベトナム戦争の再演に他ならないわけですけど、「なぜベトナムなのか?」「そこに何か必然性はあるのか?」と考えたところで答えに詰まってしまう。監督は本作のインスパイア元としてフランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』を挙げていますが、単に自分の映画の中でジゴモクをやりたかっただけなんじゃあないのか。ここで描かれるベトナム戦争からは政治性が完全に剥ぎ取られてしまっている。意地悪な言い方をすれば、この映画に出てくるアジア的な風物というのは、非アジア人のオーディエンスが欲望するエキゾチシズムやオリエンタリズムを演出するための単なる書き割りでしかないわけです。
似たような例は長編2作目の『GODZILLA ゴジラ』(以下ギャレゴジ)にも見られました。日本で作られた1954年版のゴジラでは、ゴジラはアメリカの水爆実験によって眠りを妨げられた被害者であり「核のメタファー」として描かれています。ところが、ギャレゴジはその背景を逆転させ、「アメリカの水爆実験はゴジラを倒すために仕方なくやったのだ」などとほざき、アメリカの水爆実験を正当化する、などという暴挙に及んでいる。いくらSFとはいえ信じられない設定です(のわりに公開当時にこのことはほとんど問題視されなかったらしい)。ここでも表向きは対象にリスペクトを捧げつつも、その解釈のベクトルがズレているせいで、本来ゴジラが持っていたはずの政治性を根こそぎにしてしまっている。ギャレス・エドワーズにとってベトナム戦争やゴジラの持つ意味なんてものはどうでもよく、表層の部分だけを抜き取って遊んでおればいい。まさにオタク的感性のもっともアカンところがもろに出た映画作家だと思います。そしてこれは俺の持論ですが、物事のガワだけをもてあそぶ中川翔子型のオタクには真にクリエイティブなものは作れない。本作『ザ・クリエイター 創造者』に関しても、基本的に過去作の引用のパッチワークで成り立っているがゆえに、終始既視感に苛まれながら映画を見るはめになります。
そして、彼の映画を貫くもうひとつの致命的な弱点、それは「語り口のうまくなさ」です。これも先述した点に関わってくることなのですが、作品全体が作り手が見せたいもののツギハギだけでできているので、必然的に物語の論理性が損なわれてしまう。ギャレス・エドワーズの映画を見ていて毎回感じるのが、「登場人物がいま何をしているのかわからない」こと(笑)。モンスター多発地帯のメキシコ北部を抜けてアメリカの国境まで行くだけなのに、怪物が蹂躙する街の中に取り残された家族に会いに行くだけなのに、デス・スターの弱点が書かれた設計図を盗みに行くだけなのに…。いずれの作品も最終目標は明快であるにもかかわらず、そこにたどり着くまでのプロットがいやに込み入っていて、途中に点在するサブ目標がいまいちわかりにくいんですね。それでいてプロットのわかりにくさが作品に深みや面白みを与えているかというと、そんなことは一切なく、多くは心底無駄な時間でしかなかったりする(とりわけ『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』は最終決戦まで苦痛でしかなかった)。本作においても最終目標は、AI少女アルフィーを守りつつ奥さんに会いに行く、という非常にわかりやすい構造であるにもかかわらず、「あれ、今こいつらは何をしようとしてるんだっけ?」と置いてけぼりを食らってしまうことがしばしばありました。
もうひとつ指摘しておきたいのが省略の下手さ。たとえば、ジョシュアとアルフィーと同僚の死体とを乗せた車が立ち往生するシーン。ニューアジアの住民の車が向こうからやってきて、なにか一悶着起きるのか…と思っていると場面が突然切り替わり、現地人の車の中で子供たちがはしゃいでいる絵になる。その直後に、ジョシュアを指名手配する検問を車で突っ切るくだりへと繋がっていくわけですけど、必要な描写がぜんぜん足りないために、観客のもつ「どういうやり取りがあって彼らはジョシュアとアルフィーを乗せることになったの?」「なぜ彼らは命懸けで2人を助けたの?」といった疑問をいっさい解消してくれない。同様のことは最終盤にも起こります。ノマドの中をウロチョロしていたアルフィーがたまたまマヤのクローンを見つけ、それを引きずって畑まで持っていくくだり。展開が唐突すぎるうえに、間の描写を飛ばし過ぎ。一応あれはラストの感動的な伏線になっているわけですけど、いかんせん伏線の張り方が強引すぎるせいで号泣どころか興醒めしてしまいました。そもそも、月行きの飛行機をハイジャックしてノマドに向かわせ、その足で中枢に乗り込んでアルフィーの能力でシステムをハック、ついでにミサイルに爆弾を貼っつけてノマドを自壊させる、とかいうジョシュアのプランはあまりにも行き当たりばったりで無理がありすぎないか…。
オチもなんだかなあ、という感じです。空中からのべつに自分たちを監視し爆撃していたノマドがぶっ壊れて喜ぶ気持ちはまあわからんでもない。なんだけど、その後にニューアジアを待っているのはおそらく西側諸国のさらなる報復ですよね。少なくともノマドを破壊したから戦争は終わったんだ、なんてなことにはならないはず。いやさ、ことによるとこの映画の作り手たちは本気でそう思っているのかもしれない。敵国の象徴を打ち倒した時点で戦争は終わるんだ、と。直近の戦争で当事者になった経験がない国(アメリカやイギリス)の人間特有の傲慢きわまりない戦争観というか、世の中をなめくさった負のオプティミズムのようなものを感じてしまいます。そういうメンタリティの持ち主だからこそ彼らは、ウクライナを侵略するロシアを痛烈に批判したのと同じ口でもって、パレスチナを侵略するイスラエルを擁護する、とかいう離れ業をやってのけられるのかもしれない。
ただねえ、ここまでクソミソにこき下ろしても、俺はやっぱりギャレス・エドワーズのことを嫌いになれないんですよね。映画のラストで人間と一緒になってあたかも人間のように勝利を喜ぶドロイドの姿を見て、なぜだか涙がブワッと吹き出してしまった。そして思い返してみると、この監督はつねに人間よりも人外キャラクターの方に優しい眼差しを注いでいたのでした。『モンスターズ/地球外生命体』のラストでSEXする巨大モンスターのツガイ、悪を打ち倒す民衆のヒーローとして描かれたギャレゴジのゴジラ、いまいち個性の薄い面々の中でひとり異彩を放っていた『ローグ・ワン』のK-2SO。そして本作『ザ・クリエイター 創造者』においても、作り手は明らかにニューアジアやAIの側に肩入れしているように見えます(もちろん、この映画が『ダンス・ウィズ・ウルブズ』や『アバター』のような無邪気な白人酋長ものの変奏である、という指摘はまったく正しい)。人間ではないものを人間よりも人間らしく、慈しみを持って魅力的に描くこと。これは映画作家ギャレス・エドワーズのもっとも優れた作家性のひとつだと思います。
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