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ザ・クリエイター/創造者のbluetokyoのレビュー・感想・評価

ザ・クリエイター/創造者(2023年製作の映画)
3.4
壮大なSF的映像は迫力があり素晴らしい。リアル感は息をのむほどである。そのわりに、実は1、2度寝落ちしてしまった。AI対人類、ということらしいのだが、そもそもこの映画に出てくるAIが、どういうAIなのかイマイチなのだ。AIというより、AIを搭載したロボット、この映画では、シミュラントと呼ぶわけだが、結局、シミュラント対人類である。とすると、これって、とくに、AI対人類でなくてもいいんじゃないの? と思ってしまう(たとえば、他の天体を人類が征服して、人類と征服された天体の先住民との戦いになる、とか)。

主人公のジョシュアは、シミュラントの集落(人間もいる?)に潜入している。そこで、マヤという女性と結婚しているわけだ。このマヤが、AIロボットの開発者、ニルマタであるらしい。だが、ジョシュアは、このことに、あとで気付く。
ジョシュアは、いわば、スパイである。妻であるマヤが、ニルマタであることになぜ気付かなかったのだろう。(これではなんのために潜入したのやら)
しかも、マヤは、ニルマタとして、アルフィー(新型か特殊なシミュラント)を作り出している。よほど、ジョシュアが鈍いのか、マヤが隠密作業が得意なのか。

で、マヤは、妊娠中の子どものDNAだかをスキャンして情報を取り出して、AIに組み込んでいるらしい。だから、アルフィーは、ジョシュアとマヤの子どもみたいなものであるらしい。
ドラマ的には、面白くなるが、それは、あくまでも、人類が、シミュラント集落を襲撃することが前提である。そうでなければ、なんのためにマヤはそんなことをやったのか、意味不明である。
たとえば、そうすることによって、AIの性能が格段に上がるということなのだろうか。説明がまったくないので、話的に都合がいいからそうした、としか思えなくなる。

ジョシュアは、マヤのもとに辿り着くのだが、マヤは、人類の襲撃で、怪我をして?植物人間になっていたのだ。しかも、ハウエル大佐(ジョシュアの上司?)はそのことを最初から知っていたらしい。なんてひどいヤツ、であるが、こんなに情報通なら、ますます、スパイとしてのジョシュアはいらない気もする。考えられるとすれば、シミュラントに対する囮のような存在であろうか。

で、マヤがこっそり作成した新型シミュラント(アルフィー)には、特別な性能があるのだ。(特定の範囲内の)機械、マシン?を遠隔操作できるのだ。微妙というか安直というか、そういう機能だな。

人類は、巨大攻撃宇宙ステーション、ノマドで、地上のシミュラントの集落をミサイル爆撃している。
じゃあ、アルフィーと一緒にノマドに潜入して、ノマドを破壊しよう、ということになる。

ジョシュアとアルフィーは、ノマドにうまく潜入する。アルフィーは、中央制御ルームみたいなところに行ってから、ミサイル爆撃を停止する。
とすると、やはり、マシンの遠隔操作といっても、範囲が決まっているのだろう。
一方、ジョシュアは、時限爆弾をセットする(そんなんで破壊されるノマド脆すぎ)。

ここからは、最後のオチネタ。見たくない人は見ないでね。

アルフィーとジョシュアは脱出しようとするわけだが、ジョシュアは間に合わず。アルフィーに、天国で会おう、と言って別れる。

その前、アルフィーは戻るときに、マヤそっくりのシミュラントが、横たわっていることに気付く(マヤ、あるいはマヤの父親が開発者だったので、マヤ似のシミュラントが、ある程度の数、存在するということか)。
アルフィーは思わず、フラッシュメモリーをそのシミュラントに装着する。このフラッシュメモリーは、ハウエル大佐が、植物人間となったマヤから情報を引き出そうとして、意識情報をコピーしたものだ。

このシーンの説明としては、たとえば、主人公、ジョシュアの上司? ハウエル大佐の行為でこういうのがある。亡くなったばかりの兵士に情報を聞きだすのだ。その兵士の隣に、別の遺体、あるいは、シミュラントを置いて、リング状の装置を遺体の頭部の上に置く。作動させると、僅かな時間だけ、意識が蘇るのだ。本人は生き返ったのかと思うだろうが、意識だけなので、僅かな時間が過ぎれば、消えてしまう。意識の情報が遺体のどっかに残っていて、情報として、取り出して再生できるということだろうか(意識の情報化?)。

ということで、一人残ったジョシュアは、マヤそっくりのシミュラントに出会う。しかも、マヤの意識を持っているのだ。あの世に行く直前に、マヤと出会えたわけだ。

ノマドは爆発して、地上に落下していく。地上では、多くのシミュラントが、やったー、と大喜び。

巨大な攻撃宇宙ステーションというのは、ゆっくりと垂直に落下するものなのだろうか。パラシュートが落下するようにしか見えないのだけど。

AI対人類では、いかにも、冷酷な攻撃側がAIで、平和的で攻撃される側が人類というように思われるが、この映画では、その逆になっている。AIが平和的で攻撃されているのだ。
ただ、これは、AIとは、そうしたものだという根拠からでもなんらかの考察による結論でもない。そうでなければ、安易にAIを扱ってよいものなのか。たんに、AIが世間をにぎわしているので、AIネタで作ってみよう、という安易な思い付きではないかと疑ってしまう。
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