耶馬英彦

ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワーの耶馬英彦のレビュー・感想・評価

3.0
 アメリカの黒人が「Black Lives matter」と叫んで、自らの権利を主張した運動がひとしきり続いた後、コロナ禍のアメリカで、黒人の大男が東洋人の老婆を殴り倒す動画がニュースで紹介された。コロナ禍は東洋人が原因だというのが殴った理由らしいが、とても嫌な印象を受けた。
 まず第一に、どんな理由があっても、丸腰の老婆を大人の男が殴り倒すのは人間として間違っている。第二に、東洋人をカテゴライズして全員を憎悪するのは、黒人差別の図式と同じだ。

 本作品では、映画において、力のある側が、力のない側の人権を蔑ろにする構図が紹介されている。こういう構図は映画に限らない。取り立てて新しい視点はないが、客体化という言葉に二重の意味を持たせているところが面白い。
 ひとつめの意味は、客体化=性的対象として見る、見られること、またはそのように扱う、扱われることである。主に女性が客体化されている。もうひとつの意味は、自己客体化である。性的対象として見られ続けた結果、女性自身が性的対象としての自分を意識する訳だ。
 鏡を見る、化粧をする、流行のファッションや際どい衣装を身に着ける。女性自ら、男性の視点を取り入れているのだ。それはつまり、性的な魅力が大きいほど、生きていくのに有利であることを自覚しているということだ。だから女性の映画監督でさえ、ストーリーやテーマに関係のないヌードシーンや女性の体のアップを撮ってしまう。

 沢山の映画を観ている観客のひとりとして思うのは、本作品が指摘する男性視線や女性の客体化は、主にアメリカ映画の話であろう。作品もそうだし、映画祭や映画賞の際の女優たちの、ほとんど裸みたいな衣装もそうだ。日本アカデミー賞の授賞式の女優たちの衣装は、それなりに着飾ってはいるものの、シックなドレスや和服が多い。邦画で女体を舐め回すようなカメラワークは観た記憶がない。ポルノではないのだ。

 日本では今ひとつ浸透しきれていないレディ・ファーストの習慣は、ある意味では女性蔑視の現れである。日本の男性は女性に対してそれほど積極的に関わろうとしない面がある。それはモラルが優れているわけではない。親しき中にも礼儀ありの精神と言えばよく聞こえるが、人と人との関係性が希薄というか、要するに気が弱いのである。揉め事を嫌う国民性が、他人に対する要求の度合いを低くしている。
 逆に言うと、他人に強く要求できる、自分本位の独善的な人間に逆らえないということでもある。一億総自己客体化だ。声の大きな軍国主義者が力を持つと、誰も逆らえない国であることは、戦後も変わっていないのだ。羊も結託すれば狼に勝てるかもしれない。諦めて沈黙していると、狼のいいようにされる。

 本作品には、私たちは黙っていない、自己客体化もやめるという、強い意志のようなものを感じた。そこはアメリカのいいところだろう。ただ支配側も強い意志を持っている。せめぎ合いは日本みたいにさざ波のようではなく、荒れ狂う嵐になる。しかもアメリカは銃社会だ。どうなることか。
耶馬英彦

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