「面倒だからラッセル・クロウを呼べ」
この映画、観ていて大分評価が難しい。
「そういう事?」って( ゚д゚)ハッ!としたと思えば、
なんでその後その展開なんだよってゲンナリする事を繰り返し・・・。
結果。
エクソシズムじゃなくね?
って冷静に思う事もアリ。
一体この映画はなんだったのか。
それがすごく難しい。
エクソシストのタイトルを冠するなら、エクソシストの系譜である必要がある。
言えばそれはザックリとヴァチカンのキリスト教の悪魔祓いよね。
色々宗派はあれど、無宗教の日本人のワイには分かる範囲じゃないので割愛。
それでもこれまではヴァチカンの許可なり、独断なりは置いておいて、
その組織に属する人が悪魔祓いやる事をエクソシズムと呼ぶわけやん。
映画ではね。
ただ、本作でも言う通り、世界には様々な宗教があり、
そのほとんどが悪魔に類似した概念を定義し、それを払う事で地位を確立してる。
本作はまさにそれをテーマにしてるのかな?それやったら快挙!って思った。
言ってもハリウッド映画、キリスト教が絶対で、
仮にキリスト教で祓えない悪魔、もしくはキリスト教の現体制の問題で祓う事が出来ない悪魔がいたとして、
それを他宗教で祓うという展開であれば、それはかなりのチャレンジ。
それは評価したい!って評価を上げたら、なんかそうでも無い展開。
結局そっちかよ!ってツッコみたい衝動の展開の時には2点付けようと思った。
思ったら、またそうでも無い展開にうひょー!ってなる。
うひょー!ってなった後、その後の展開を見て思う。
祓えてなくない?
って。
祓えてないのに、エクソシストって名乗って良いの?
そんなジレンマ。
結局、シナリオが混とんとし過ぎて、テーマが分からん。
テーマが分からんと、見方が分からん。
ええい、面倒だ!ラッセル・クロウを呼べ!
そうなる。
ただ、それでこの作品の評価を著しく落そうと思っても、少し引っかかる部分がある。
結構この作品は既存のエクソシズム映画に対するアンチテーゼにもなっていて、
考えさせられる部分が多いんだよ。
明言されている、「キリスト教だけが悪魔祓いをやってるわけじゃない」って点。
それはそう。
本作の冒頭、タヒチかな?の土着の宗教の祈祷のシーンがあって、
ある種キリスト教が一般的で、各国にある土着の宗教は劣っているような蔑視にも見える。
これはこれまでのエクソシスト映画全てで描かれてきた絶対的な概念。
結局、キリスト教が正義っていう。
ただ、本作ではキリスト教の絶対を揺らがせる。
そこで本作はもしかして、悪魔祓いの概念をグローバルに定義し、
悪魔的な概念は重複しつつ、ただ場所の軸が違うために異なる宗教が生まれ、本質は同じであるという剛腕論への帰結なのかと。
実際、他宗教が今回のエクソシズムには登場する。
ただ、結果的には・・・。
その結果は置いておいて、ワイは思ったわけよ。
そもそも、なぜそうまでしてエクソシズム映画が作られるのかって。
日本人は無宗教とは言え、ハリウッド映画の定番としてのキリスト教は概念の定義として割ともう文化的認知になっている。
なんだろ。エクソシズム映画=ヴァチカンの悪魔祓い的な?
そして悪魔は祓われ、犠牲はあってもそこが勝つ。
もしくは闘いは続いてく。
本作でそこに疑義が挟まれ、他宗教の悪魔祓いもヴァチカンのそれと同義のような展開が一瞬挟まって考えたんよ。
それって、神を信じてるのではなく、悪魔を共通概念として信じてるよね。
って。
宗教の本来は、それぞれの神を信じる事が絶対で、神に対する相対的な概念が悪魔になる。
それぞれの宗教で異なる神が信仰されており、その相対的な立場に悪魔のような概念はある。
ただ、神の垣根を超えた時、それって何を信じてるのかって言うと、悪魔の方を信じる事になる。
主眼が神から悪魔に代わるんよ。
これって天地がひっくり返ったような視点で、信仰の起点である神とその相対である悪魔が入れ替わるんよね。
難しいかな。
宗教はそれぞれ個別の神を信じてる。
皆、自分の信じる神が絶対と考えている。
けど、仮にそれを相対的に位置する悪魔が同一の概念だと定義した場合、
それは概念として確立する主眼は悪魔であり、そこから派生した神はどこかでその信心に間違いがあるという事。
と、この面倒な話はあまりどうでもよくて、言えば、絶対的な概念が悪魔になってまで、なぜ人はエクソシズム映画を作るんだろうか。
いや、それだけでなく、現在進行形で広まり、生まれ続ける新興宗教含めてさ、何故人はそうまでして神という概念を作り続けるのか・・・。
・・・と書いてて思った。
違うか。人は、悪魔(的概念)を信じるが故に、思考の産物として神が派生するのか・・・。
まぁ関係ないね。この話は映画に。
話を戻すと、他宗教の悪魔祓いを是とした時、中心は神ではなく悪魔に移る。
それはこれまでキリスト教至上主義を描いてきたハリウッドには似つかわしくなく、
そうまでしてエクソシスト映画を描くのは何故か。
この疑問。
この世界は主流はオカルティズムではなく、科学。
エクソシズム映画はその科学へのアンチテーゼでもある。
ただ、それぞれが信じる宗教の垣根を捨ててまで、科学に対して反する存在=悪魔を肯定したがる欲求はなんなのか。
( ゚Д゚)ハァ?
って思ったわけよ、
それは多分、科学は無下限呪術なんよ。
一歩一歩解明し、時折間違いはあり後退するが、日々前進する。それが科学。
ただ、どれだけ前進しても、全ての解明には∞の距離があり、一歩進めば進むほど、距離の遠さを如実に感じ、むしろ知る事でより遠く感じる。
その間隙に対する疑念だったり、切望が、エクソシズム映画を生んでるのかなって。
そんなことまで考えた。
本作起因で。凄くない?そこまで考えさせられるの。
結果を言えば、そこまで深くは無かったんやけどさ。
その後二転三転して、結局なんだったのか分からん。
分からんのに考えさせられた。
( ゚Д゚)ハァ?
って思った。思たったけど、考えさせられた事実は否定できない。
でもこれ書いてて思ったのは割といい線いってるのかもな。
人は、神を信じて相対的に悪魔を定義したのではなく、
悪魔を信じて、その相対的に神という概念を生んだのではないか。
故に世界には多数の神が存在し、どれが間違ってるかという争いに興じてるわけで、
仮に悪魔のような存在が絶対的だとしたら、その対抗馬である神と言う概念が分離している人類に勝ち目はないよね。
・・・って事まで、酔ってるとは言え考えさせられたのであれば、本作は良作なのかなぁ。
けど、答えを貰ってないというか。
いや、結局本作も悪魔が絶対的な概念やからな。
分からん。
難しい。
何でお前、こんな糞みたいな映画にそこまで考えとんねんって言われると思う。
それは否定できない。
単なる糞なのかもしれない。
けど考えさせられて、自分の思考が発展すればそれは良作でもある。
ただ、作品の質的に疑問はある。
そんな狭間の悪魔に取りつかれてる。
もう面倒だから、ラッセル・クロウ呼んでワンパンで片付けてくれる映画にして欲しかった。
五条悟でもいい。
もう。
面倒。
エクソシストの名を冠しただけに、余計に面倒。
こういう時は、もうラッセル・クロウを呼ぼう。
仮に世界の宗教が物理的な距離の遠さによる分断によって個別に生まれたとして、
そもそもその発想はどこから生まれてくるのか。
そもそもなぜエクソシスト映画がつくられ続けるのか。
これ程宗教色が強い映画が。
今まで、日本の文化的にハリウッド映画では慣れ親しんだキリスト教至上主義。
それ故にむしろ疑問に思わなかった。
本作で他宗教も同一のような一瞬があった故に思った。
もし、キリスト教を捨てて、他宗教を是としてエクソシスト映画を描くのなら、
その中心はエクソシズムではなく、悪魔という共通概念に対しての怖れ。
無知から始まった人類は、様々な知的蓄積と思考による進化によって、
こういったオカルトに頼らない現実の解明をしてきた。