セキ

悪は存在しないのセキのネタバレレビュー・内容・結末

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

 映画としての構成的欠如は非常に挑発的で、わざわざ肩をブンブンまわして都内で2館しかない上映館に来た観客にとってはもう必死であれが何だったのかを考えるしかない訳である。内容として経済を描くだけではなく、この映画自体も経済的にまあ手が込んでいるなと思う。
 広大でどこまでも続く自然、そこにグランピング施設を建てようとする東京の人間たち、強く反発する地元住民、そして全てをただ静観する主人公と娘。
 カメラの視点は基本的に自然側に向いているので、自然を守りたい善き地元住民たちと何も考えずに自然破壊を行う悪しき都会人という構図になりそうなものだが、これは、説明会の主人公による「この村の歴史は長くない」という発言で回避される。彼が説明するのは、地元住民も元々は土地を求めてやってきたというルーツを持ち、グランピング施設を建設するために土地を買った人間たちと何ら変わりはないということ。両者の間にはあるのはたかだか百うん十年程度の時間差だけであり、自然からしたらどちらも森から利益を得るためにやってきた外来種なのだ。
 ここで構図は大きく変わる。つまり自然とそれを利用しようとする人間だ。この時点で構造に善悪は無くなる。自然は沈黙している。人間も利益を得ながら自然とうまくやっていきたいと願っている。問題はコミュニケーションの齟齬になってくる。主人公から言わせればバランスだ。
 このコミュニケーション・バランスの問題は勿論、自然と人間だけではなく人間同士にも当てはまる。"経済"である。このことを観客に分からせるためにわざわざあれだけの尺を使って東京パートを撮っているんだと思う。思いやりの足りなさには個体差はあるものの、胡散臭いコンサルと馬鹿そうな社長も含めた登場人物全員が己の利益のために動きながらもお互いの妥協点を探って会話をする様子が描かれる。もちろん彼らに悪意はない。特に村へ向かう車内での社員2人のコミュニケーションは常に破綻と安定の二極を行ったり来たりしながらも、それぞれ苦しい人生を送ってきたであろう2人がその場で繊細に対処することで、無事にバランスを保ったまま村に到着するのである。こんな所でサスペンスを作り出してしまうのは流石濱口竜介だ。
 煙草は特に分かりやすく人間同士のコミュニケーションを示す。運転席で煙草に火をつける主人公と、同じ喫煙者だが後部座席の女性社員に気を遣って何も言わずに窓を空ける助手席の男性社員という関係性なんて正に人間と自然と管理者の三すくみをわかりやすく表現している。男性社員がグランピング施設の管理人になろうとする展開はそういう意味で綺麗に辻褄が合っている。
 主人公と娘の存在について。主人公は無職であり便利屋として働く代わりに地元住民たちに生活を援助してもらっている。大きな妖精さんのような存在にも見える彼は常に落ち着き払って全てを、自然を静観する。娘も管理者見習いと言ったところだろうか、終始自然の中を歩き回り、森に通じようと試みている。経済の外にある特殊な立場に身を置いた主人公たちは、人間と自然を仲介する存在だ。だから彼が木を切り薪にするし、水を汲んで街へ届ける。娘も同じように鳥の羽を拾えば、楽器にするため老父に届ける。冒頭から主人公の自然に対する畏敬の念は凄まじい。だからこそ黙っているし、どのくらいまでならバランスが崩れないかもよく分かっている。思えばこの映画の中で、森を人間の利に変換する存在は彼らだけしか出てこない。鹿猟も遠くから銃声が聞こえるだけで誰がそれをやっているのかは一切見せられない。グランピング計画も会社と自然の間に主人公が入る形に自ずとなっていく。
 ではなぜラストシーケンスで主人公は人間を襲う可能性のある鹿から娘を助けなかったのか。それはやはり自然と人間のバランスのためだと思う。あそこで主人公や社員の男が介入したら、それまで保っていた人間と自然の均衡が崩れるということをわかってしまったのではないか。娘が殺されてしまうことも含めてそれは自然との対話であり、死はその代償だと彼は考えていたのか。社員の男の首を絞めて気絶させなければならない程、主人公は自然とのバランスが崩れることが恐ろしいのだろうか。その関係に「悪は存在しない」ことを知っているから、鹿が人間に牙を向く時、彼は何もする事ができない。彼にできるのは自然の脅威が過ぎ去った時、大切な家族を街まで急いで運ぶ事だけだ。常に父親のロールよりも仲介者の方を優先してしまう人物として描かれてきている。だから彼の選択に違和感を全く感じない。いろいろ伏せられている以上、このシーンについて想像の範疇を越える事はできない。
 この物語の結論には災害を含めたエコロジーへの関心がある。そこにサブテーマとして人間同士の"経済(エコノミー)"も同じ問題として織り込まれる。近年映画界を騒がせるパワハラ・セクハラ問題も自然災害・環境破壊の問題も全てはコミュニケーションの齟齬、均衡の崩壊から始まるものであり、問題が起きた時に降りかかる害に対して、私たちは決して報復することなく、バランスを取り戻すために共生していくために、常に冷静に相手との対話をしなければならないんだということを、この映画はわかりやすく淡々と語りかける。
 濱口竜介の映画の凄まじい所は無駄がありそうで、他のどの作品よりも無駄がない所である。言うなれば細マッチョ映画だ。シーン、会話、人間同士の立場の取り方、自然に対するフレーミング、とにかく全てがテーマに通じすぎている。どんなに歪な構成になったとしても必要なものは尺をかけて描くし、無駄は絶対に入れないというストイックさが濱口映画を支えている。

 黒沢清との話。1999年に発表された黒沢清の『カリスマ』は"エコロジー"から人間同士の"経済"へと関心が向き、最後には"戦争"に発展する。対して今作は、あくまでも主軸として描くのは"エコロジー"であり、21世紀になり日本にとって戦争より身近な現象となった"災害"の話へ発展する。"戦争"をそのものとしてスクリーンに映し黙示録にしてしまう黒沢と、"災害"における自然と人間の関係を鹿と少女に置き換えてバレないようにスクリーンに落とし込んでしまう濱口は、師弟ではあるものの作家としては似て非なる存在であると強く感じた。ただこれは濱口が黒沢を意識してとかそう言う話ではなく、時代と作家が呼応した、ただそれだけの事だと思う。

 あと気になったのはカメラワーク。おそらく自然物を捉えると言うこともあってシャッタースピードを早くしたりと、中々フットワークの軽い撮影をしていたと思う。どこまで狙い撃ちで撮ったのかはわからないが、一つの画面の中に役者と自然が映るのは驚いたし、美しかった。濱口竜介の映画はあまりフィルムルックというものが意識されておらず、むしろビデオ的なルックになっており、画からは報道やドキュメンタリーの気を感じる。テレビ局出身だからみたいな理由付けには無理があるかもしれないが、彼の作品にはなぜこういうルックが多く見られるのかはとても気になる。
 ラストの鹿と銃創と少女のショットはあまりにも完璧で身が引き締まった。このために全編通して画が動きがちだったのかと思ってしまう程だった。この人もやっぱり映画が巧すぎる。

 石橋英子の音楽が本当に最高で、始まり方から盛り上げ方までカッコ良すぎる。音楽は詳しくないので下手な事は言えないが、リズムがこの映画の全てを支えていたような印象があった。『GIFT』も機会があれば観てみたい。

 あっという間の100分でした。面白かったです。銀獅子賞おめでとうございます。
セキ

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