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悪は存在しないのSiestaのネタバレレビュー・内容・結末

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

「ドライブ・マイ・カー」がアカデミー賞作品賞ノミネート、外国語映画賞受賞という快挙を経て、濱口竜介監督による注目の最新作。ただ、昨年のヴェネツィア国際映画祭では上映されて銀獅子賞を受賞しており、そこからの年を跨いでの日本公開というのは、日本映画では異例。さらに、濱口竜介最新作という注目作であるにも関わらず、何故か一切シネコンでは上映されないという。何かの意図があるのかな。芸能事務所のやり方を非難するようなところがあったにせよ、そこまでか?とも思うから、きっと製作側の意向なのかなと思ってしまう。でも、そのおかげもあってか、ずっと行ってみたかったキネマ旬報シアターに行けたのは嬉しかった。向かいの町中華からの映画。館内の膨大な名作たちのパンフや雑誌、コラージュ。見ているだけで幸せになる。
作品はというと、過去作も商業映画と言えど極めてアート寄りな印象だったが、今作はよりその印象が強い。めちゃくちゃ映画偏差値高めの作品だと思う。有名俳優ゼロでほぼ素人キャスティングに近いらしくブレッソンか、と。オープニングの題字はゴダールっぽい。下から森、空を眺める長いシークエンス。この雰囲気やれちゃうの凄いよな。ラストにかけての雰囲気にはベルトルッチの「暗殺の森」も想起する。ただ、基本的には軽妙な雰囲気でシリアスではない。
川から水を汲み、登って運ぶ。豊かな自然の中に生きる巧たち、町の人々。木々、草花、天然水、鳥、鹿。厳しくも自然との調和の中で生きている。そんなところにグランピング建設の話が出てくる。浄化槽の位置、当直の不在。たしかに杜撰かもしれない。でも、運営する上で、シビアな面も分からなくもない。濱口竜介監督は、割と作品の根幹に当たる部分をセリフで言ってくれる印象もあって、今回は町長のセリフがそこを多分に示唆している気がする。正確なセリフは忘れたけれど、「上の者は下の者と争いにならないようにしなければならない」、「バランスが大事」というようなこと。それから、うどん屋の女性が「水を汚すということはここに来た理由そのものを覆す」というあたり。おそらく、今作は“上下”の関係性、土地とアイデンティティの映画なのだと思う。
反省点を持ち帰り、話し合う事務所の人々。コンサルタントのリモートでのあの雰囲気、絶妙過ぎるな。失礼だけど、めっちゃマ◯な◯社長感あった。社長は補助金目当てで、それは事務所のためで、それを2人に任せて、という。巧を管理人にすれば?という。社長・コンサルタント、社員の上下に、国、社長という上下を透けて見える。町に向かう車内の生々しい会話が可笑しい。汚い世界でかえって清々しい。結婚して自分が管理人になろうとまで。
巧と再会し、社員の男は木を切る。ここ最近で一番スッキリした、と。多分、その感覚がものすごく“他者”なんだろうな。だって、巧にとっては日常であるのだから。社員の男は自分が管理人になろうと思っていることも告白し、巧に付いて回る。知ろうという気持ちなのか、気に入られようとする気持ちなのか。そんな中、花の失踪。作中、繰り返される花の迎えを忘れる巧の描写。グランピングやうどん屋の水汲みといった大人の事情が娘を追い越してしまう。大人と子どもという上下。ある意味で、1番下の子どもにその影響が波及していくというバランスの乱れと最悪な形での破綻。花が森や林を彷徨う様子や腐葉土からの湯気などは、監督の師匠筋に当たる黒沢清監督の「カリスマ」を想起する。あちらも“カリスマ”という木から様々な形で人々や環境に影響を及ぼしていくというホラーであったが、重なる部分も多分にあると思う。
そして、あまりに突然で衝撃的なラスト。花と鹿。巧は社員の男の首を絞める。森への逃避、「悪は存在しない」と。めちゃくちゃゴダールのテンポ感と余韻を想起する。特に「女と男のいる舗道」。人を攻撃しないはずの鹿。瀕死の娘。“汚染”の波及の被害者たち。個人的には「桐島、部活やめるってよ」のヒエラルキー、波及も想起した。ただ、このタイトルの意味。そう「悪は存在しない」のだ。もっと言えば「(自覚的な)悪は存在しない」ということなのかな。男を絞めるのは鹿が興奮しないためでもあり。複雑な余韻がある。なるほど、オープニングと繋がっているのか。うどん屋は受け入れられ、社員の男は拒絶される。そこの差異を自覚しないほどにラストの衝撃は大きい。その土地で自分を救いに来ているだけなのか、その土地のアイデンティティを求めているのか。もうめちゃくちゃ難しい。でも、やっぱり上手い監督って、全然“見ていられる”んだよな。濱口竜介監督もそう。ただ、ラストのこの切れ味に置いていかれる感覚は、そうそう味わえるものではない。
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